大江健三郎を読む女たち 002 妹の誕生

 大江健三郎のアマチュア研究家としてその小説に登場する女たちを中心に読んでゆきます、と言いはって始めたこの連載ですが、すっかりご無沙汰してしまいました。前回の更新以来、私がボンヤリしている間に大江のほうはといえば、岩波から『大江健三郎自選短篇』が出ましたね。

大江健三郎自選短編

 帯に、「全収録作品に加筆修正がほどこされた」とあるように、表紙で実際に大江が入れたと思われる赤字(青いのですが)を確認することができます。この文章は『空の怪物アグイー』のゲラですね。初出は「新潮」1964年1月号です。50年前の小説に、この赤字。「向って深く」を「かぶさる具合に」に。「恥じていた」を「後悔していた」に。「肥りすぎの」をトル、「走らせて、」の「て、」をトル……50年前に書いた小説に対し、このようなレヴェルでの修正がかけられるものなのか。編集者としては、「あの…先生、それをやりはじめると、きりがないので……」などと言いたくもなりますが、もしかしたら小説というのは永久に書き終わらないものなのかもしれません。

 そして、河出書房新社の池澤夏樹個人編集、日本文学全集の第Ⅰ期第7回配本で『大江健三郎』が出ました。この全集は、同じく池澤夏樹個人編集の世界文学全集と併せて、河出が社運をかけて大勝負に出たもの(*未確認)なのであります。

LINK



 さて、この日本文学全集の1冊目『古事記』の発行記念イベントとして、昨年10月、紀伊国屋ホールにて、大江健三郎と池澤夏樹による対談が行なわれました。対談の最後の質疑応答では、私がまっさきに質問をして、大江健三郎氏本人とちょっとかみ合わない会話をしてしまい、池澤さんがさりげなくフォローするという一幕などもあったのですが、これについては次回また触れるとして、ともかく、何が言いたかったのかと言うと、この連載に飽きてしまったわけでも、勢いを失ってしまったわけでもなく、むしろ大江の今、このときの活動に鼓舞されるようでもあり、それでいてすっかり心を奪われてしまい、ただただ茫然としていたというわけなのでした。

 さらに連載が遅れたことのいいわけとして、私が今回のテーマとしようとしていた「女」がおもいのほか、やっかいであったということもあります。

 情けないことに、大江健三郎がおおいに活躍している間、私はといえば、ちょっとした勘違いとハプニングが重なり、『同時代ゲーム』に遭難していたのでした!しかし私は無事生還し、この文章を書いています。『同時代ゲーム』に出てくる「女」について、はたしてどこまで書きうるものなのか?しかし、アマチュア研究家の「研究」の成果として、ここで文章を発表してゆくと決めた以上、書き進むほかないではないか……というわけで、ナニクソ、ナニクソ!とマントラを唱えながら先に進みたいと思います。

 妹よ、僕がものごころついてから、自分の生涯のうちいつかはそれを書きはじめるのだと、つねに考えてきた仕事。いったん書きはじめれば、ついに見出したその書き方により、迷わず書きつづけるにちがいないと信じながら、しかしこれまで書きはじめるのをためらってきた仕事。


 これは、主人公の「僕」が双子の「妹」へ宛てた書簡形式をとった小説、『同時代ゲーム』の冒頭の文章です。

LINK



 『燃え上がる緑の木』3部作を読んで以来、新しい作品が出れば読み、それと併行して過去をさかのぼり作品を読み……という私の大江ライフの途中で、この『同時代ゲーム』にも出会いました。初読は「なんとか最後まで読むだけは読んだ」ということ以外、ほとんど覚えていません。読み進めてゆくのがなかなか困難な小説です。新潮社の純文学書き下ろし作品として1979年に出版され、当時は10万部を超えるベストセラーになったのだとか。しかし、これを最後まで読んだ人はいったいどれくらいいるのでしょうか。買ったけど読んでない率でいえば、もしかしたらジョージ・オーウェルの『1984年』にも迫るものがあるのではないでしょうか。

 私は大江健三郎のアマチュア研究者なので、『同時代ゲーム』をみっちり再読しました。そしてその読書体験は、非常に大きな発見を私にもたらしてくれましたが、それでもなお、この作品を人に薦める気にはなれません。これを薦めるくらいなら、同じテーマでほかの作品、『M/Tと森のフシギの物語』や『二百年の子供』を薦めたい。アマチュア研究者としても、そう何度も読みたいというわけではない、『同時代ゲーム』を1回読む時間があったら『(雨の木レイン・ツリー)を聴く女たち』を10回読みたいと思います。

 そんな『同時代ゲーム』をなぜ、再読することになったのか。今回はそんな話から入ってゆこうと思います。

 大江健三郎の小説に登場する女性にはある種の類型のようなものがあるということに気づき、ならば類型ごとに研究してみたらどうかというのが、この連載をはじめることになったそもそものきっかけです。頭の中で、いくつかの女性の類型がぼんやりと形をとっているというような状態で、早い段階からまとまっていた類型のひとつに「妹」の存在があります。

 「妹」は、大江が自分自身を投影した主人公をフィクションとして書くようになって以来、大江作品にたびたび登場します。脇を固める、というのか、あまりメインにはならないのですが、ちょこちょこ出てくる名脇役。スパイスのような、いやスパイスではない、アクセントではなくて、ベースとなるような……だし汁のような、そんな存在です。

 「妹」は、だいたい、「アサ叔母さん」「フサ叔母さん」といった名称で呼ばれています。四国に住んでおり、看護婦長を務めていたこともあります。夫は校長先生で、いろいろ地元のコネクションを持っています。こざっぱりした性格で、実務に長けた人です。四国で何か騒動や、騒動の気配があると、東京に住んでいる兄=大江に連絡をします。基本的には、やっかいごとをテキパキと片づけてくれる頼もしい存在ですが、時々、兄をチクリと刺したりするようなことを言ったりやってのけたりすることもあります。

 …なんて書くといかにも、誰にとっても心当たりのありそうなしっかりものの「叔母さん」です。一億人の叔母さん。で、この叔母さん=妹について書こうかな、と思っていたのです。よく出てくるので馴染み深いですし、何より素敵な女性ですし。それから、類型としては比較的、こじんまりとしていてまとめやすいのではないか、などとアマチュア研究者にあるまじき、みみっちい考えをもっていたこともここに告白しておきましょう。この浅はかな考えが後々、大変やっかいな事態を引き起こすことにもなるのですが……。

 さて、「妹」はいろいろな作品に出てきますが、脇役の場合が多い。「妹」が主役という作品はないのだけど、「妹」をテーマに書くにあたって、どれかひとつ、「妹」の登場場面が比較的多い作品を探そうとしました。そして見つけたのが『懐かしい年への手紙』でした。

LINK



 これはもう、本当に大好きな小説。大江ファンはみんな大好きなのじゃないかと思います。まずタイトルがいい。『懐かしい年への手紙』。読む前から懐かしさがこみ上げてくる……。自伝っぽい小説なので、四国で暮らしていた頃の話がたくさんでてきます。だから妹もよく出てくる。最近の小説では貫禄に満ちている妹=叔母さんも、『懐かしい年への手紙』では少女です。ということは、妹=叔母さんのルーツを垣間見ることもできるはず。私は自分の選択に心から満足し、よし、これを読もう!と、ソファに寝そべって『懐かしい年への手紙』を再び読みはじめたのです。2014年の夏の終わり、この連載を始めたころでした。

 ところが、赤ペン片手に読み進めてゆくと、なんかこう、ムズムズするんです。鼻が。くしゃみも出る。涙も出てくる。いやー、ちょっとホコリっぽかったかなあ、なんてグズグズしながら、夏休みだったので一気に読みました。研究のために、赤ペンでいろいろ書き込みつつ。その後すぐに書けばよかったんですが、なんかこう、しっかり読み込んだところで、ちょっと寝かせておこうかな、というか私も寝ようかな、と思いまして。他の作品も読んで妹濃度をチェックしないと、とかなんとか言いながら放り出してしまいました。

 この時はまだ、明確な形で意識していたわけではないのですが、今にして思うと、すでにこの本―その内容ではなくて物質としての本そのもの―に対するアレルギー反応があって、それを避けようとする私の防御本能が働いていたのではないかと思います。というのも、そこから妹研究が停滞してしまったのです。仕事が忙しいとか、体調がすぐれないとか、水泳を始めたとかいろいろなエクスキューズを誰に言うでもなく準備しつつ、とにかくパタリと止めてしまった。で、秋がきて、冬がきて。こないだ、初夏の陽気に浮かれてえいやともう一度『懐かしい年への手紙』を手に取ってみて、あらためて気づいたわけなのです。この本、かゆいわ、と。

 ちょっと話がそれますが、講談社文芸文庫。高級文庫です。文庫なのに1700円とかします。なにか、非常によい紙を使っているのではないでしょうか。経年劣化には強いのかもしれませんが、その分、虫に狙われやすいとか、アレルゲン化しやすいといった可能性は考えられないでしょうか。そのあたりの研究を、どなたか行なっている方はいらっしゃいませんか。ちなみに、大江の実家は、(三椏みつまた)っていう、紙幣の原料になる木の皮を造幣局に納めていたんですよ。つい、そんなことにまで思いをはせてしまいます。講談社文芸文庫の紙の原料は何を使っているのでしょうか。もちろん、それは紙のせいではないのかもしれない。インクのせいかもしれない。講談社文芸文庫のせいではないのかもしれない。私の保管状態が悪かったのかもしれない。講談社文芸文庫でも、『懐かしい年への手紙』だけがアレルゲン化したのかもしれない。

 それはわからない。わからないけど、去年の夏はよくこれ読み通したなというくらい、ひどいものでした。あの時は、はっきりと、あのムズムズが本のせいだということに気づいていなくて、なんとなくグズグズと最後まで読んでしまったけれど、今回、再再読してやっと気づいた。そういや、前もムズムズしてなかったかと。前回はやり過ごしたアレルギー反応、今回は無理でした。せめてメモ部分だけでも確認を……と思ったのですが、涙とくしゃみが止まらず、喉まで痛くなってきて、これはたまらん、こんなつらい思いをしてまで研究を進めなければいけないのか!

 結局、その本は捨てました。これはもう、新しいのを買うしかないということで、新しい講談社文芸文庫を注文しました。

 アマゾンなので1日待てば届くのですが、その1日が待てなくて。ずっと放っておいたくせに。唐突にもう1秒も待てぬ!みたいになってしまって。よし、『懐かしい年への手紙』が届くまで、ほかの本でも読んでおくか!と何気なく手に取ったのが『同時代ゲーム』だったのです。

 先にも書いた通り、初読の印象が「なんとか最後まで読むだけは読んだ」という小説です。どんな話だったか、ぜんぜん覚えていない。読んだということのほか、何も覚えていない。なんか難しかったという理由で再読もしてこなかった。とはいえ、あれから私も大江を読み込んできました。読書というのは訓練です。大江の小説を読むためには、それ相応の筋肉のようなものが必要です。いわば大江筋とでもいうのでしょうか。どの作家の本を読む時もそうだと思いますが、とりわけ、大江はふだん使わないような筋肉を使うことがもとめられる作家ではないでしょうか。初読から何年たったか、とにかく、あの頃に比べたら私の大江筋は著しく成長しました。うん、今なら読めるはず。よく鍛えられた大江筋にグッと力と込めつつ、えっと、たしか『同時代ゲーム』も四国のことを書いていたんだよね、妹出てくるかなー妹……などとうすぼんやりした記憶をたよりにページを開いたところ、いきなり「妹よ!」と、はじまった。これだと思いました。妹よ!

 『懐かしい年への手紙』を待つあいだ――これが私と『同時代ゲーム』の再会でした。

 さて、この文章を読んでくださっているみなさんの中で『同時代ゲーム』を最後まで読んだことのある方はそれほど多くはなく、そして今後も読むかどうかはまったくわからないという、若干悲観的な予測のもと、『同時代ゲーム』とはどういう話かについて軽く説明しておかなければなりません。ええ、軽く。かるーく。

 みなさん、マジックリアリズムってご存じでしょうか?私はわかるようでわからないようで思わずウィキペディアをみにいって煙に巻かれた感じなのですが、ひとことでいうと、なんかちょっとこう、不思議なことが起きる話であると。魔術的リアリズム、なんて言われたりもしているそうです。でも、魔術的っていっても、ナルニア国とかハリーポッターとかじゃないんですよ。ああいうのじゃなくて、もうちょっとこう、私たちの暮らしに根差した形で不思議なことが起きると。この、私たちの暮らしに根差した形、というのが、けっこう難題なわけです。というのも、私がいうのも変ですけど、こんにち、科学や情報技術の発展により、あんまり不思議なことって起こらなくなったじゃないですか。細菌の種類もだいたいわかるし、エルニーニョとか、データアナリティクスとか、腸内フローラとか、いろいろな現象に答えが用意されている。そのような現代において魔術というのはなかなか暮らしに根差し難いものがある。そこでどうするかっていうと、ちょっと昔に戻るんですね。細菌に名前がなかった時代、地図にない村が、雑穀中心の食生活が、ヤマネコが、ヤマイヌが、村のはずれに巫女とかシャーマンとかが住んでいた時代の不思議を借りてくるのです。伝承とか言い伝えを現代に照らし合わせてアレンジする――このような理解であってますでしょうか、マジックリアリズム。

 『同時代ゲーム』はまさにマジックリアリズムの小説です。主人公である考古学者の「僕」が、妹へ語り聞かせる形をとって、四国の山奥にある土地の神話、伝承を書き連ねる……と、こんな具合でいかがでしょうか。軽さはこれくらいでよろしかったでしょうか。重いところはございませんでしたしょうか。

 神話の具体的な内容については、小説を読んでいただくとして……と言っても誰も読まなそうなので、ちょっと書きますと、昔はすごくでっかい人たちがいてとかですね、その人たちがみんな同じ夢を見たりですとかね、そのでっかい人を率いていた「壊す人」っていうこれまたでっかい人がですね、死んだり蘇ったり、干しシイタケのように干からびて、でも今またふやけてきて復活するかもとかですね、神話の不思議が現在にもつながっていなくもない、と思えなくもない、というか。神話の中では、シリメ、という名前で呼ばれていた、尻に目があるとされていた男は実は痔だったのじゃないかと現代の「僕」がスポーツクラブで痔持ち男の尻をみて気づいたりするのも、日常に寄り添いつつ、不思議な感じです。マジックリアリズムです。まあ、でも変な話です。結局のところは、「やっぱないわー」ってなって、いやでも私たちの暮らしだって思っているより変なのかもしれないと不安になるようなワクワクするような、それがマジックリアリズムです。ええ、たぶん。

 マジックリアリズムといえば、『同時代ゲーム』を読んでいて、思い出したのがガルシア・マルケスの『百年の孤独』。私は読んだことないのですが、「あ、これはまるで百年の孤独じゃないか」と思ったのです。読んだことないのに。なんで読んだことがない小説を思い出せるのかといえば、私の夫が読んでいたのです。寝る前に、ベッドに並んで、私が本を読んでいる脇で夫が『百年の孤独』を読んでいるという一時期があったのです。私は別の本を読んでいるわけですが、時折となりの様子が気になって、「今どうなってる?」と聞く。すると、「マコンドという村なのだが、もう何年も雨がやまぬ」などと教えてくれる。数日後、またベッドに並び、脇にいる夫に「雨は止んだか」とたずねると「雨は止んだが、村人たちがみんな眠れなくなった」と。こういうことを続けているうちに、私としてはすっかり読んだ気になってしまって。これは、いわば、『百年の孤独』が口承で伝わったのであると。もともと口承をベースに書かれたのがマジックリアリズムなら、口承に戻した形で受け止めたっていいでではないか、と。『同時代ゲーム』も、ただ読むのが辛そうであれば、身近にいる誰かに読んでもらって、夜ごとに言い伝えてもらうのもいいかもしれません。

 ……という具合に、聞いただけの『百年の孤独』に思いをはせながら『同時代ゲーム』を読んでいたら、なんと、ガルシア・マルケスが出てくるではありませんか!どこでどう、ということはそれこそ読んでいただくとして、なるほど、これで少なからずこの小説がマルケスの手法の影響を受けていることがわかりました。

 さて、『同時代ゲーム』全体の話はこれくらいにして、女たちの話に戻りたいとおもいます。結論からいうと、『同時代ゲーム』の「妹」は、私が考えていたような「妹」ではありませんでした。ぜんぜん、ちがいました。大江筋の発達した私は、1ページ目で「あ、これちがう」と気づきましたが、そこでやめることはできませんでした。だって、アマチュア研究家を名乗り、「妹」をテーマにものを書こうとしている以上、しかも初読の記憶がほとんどないというのだから、これはどういうことなのか、最後まで読んでみなくてはなりませんが!

 ちがうちがう言ってますが、何がちがうかっていう話を少ししようと思います。

 さきほど1ページ目でこれはちがうと気づいた、と書きました。具体的にはこの文章を読んで気づきました。

 妹よ、きみがジーン・パンツをはいた上に赤シャツの裾を結んで腹をのぞかせ、広い額をむきだして笑っている写真。それにクリップでかさねた、きみの恥毛のカラー・スライド。メキシコ・シティのアパートの目の前の板張りにそれをピンでとめ、炎のような恥毛の力に励しを求めながら。



 いきなり「妹」の恥毛についての言及があり、読んでいるほうとしては「これはこれは!いったい、ナニゴトか?!」と思わず身構えてしまうのですが、恥毛自体はいいのです。ここでは恥毛という表現が使われていますが、大江作品で女性の陰毛というのはしばしば出てくるモチーフなのです。大江は陰毛が好きなのです。それは別にいいのです。でも、「妹」の恥毛となると話はちょっとちがってきます。私が探していた「妹」はアサ叔母さんあるいはフサ叔母さんであり、彼女たちはメキシコ・シティに滞在している兄に恥毛のカラー・スライドを送ったりするタイプの女ではないのです。私が追っかけてきた「妹」はこのひとではない!

 それはそれとして読み進めてまいりますと、この小説に出てくる「妹」というのは、ただの「妹」ではなく「双子の妹」という設定なのですね。つまり、主人公の分身というか片割れのような存在です。文中にやたらと「妹よ、」という呼びかけが入ってきます。「そうなると妹よ、」「しかし妹よ、」「この伝承は、妹よ、」。合いの手みたいな感じです。妹よと言っているのですが、双子なので、半分自分に向かって、といったニュアンスも感じられて。なんかこう、自分の内側に閉じこもっているような印象を受けます。

 で、この「妹」というのが、その生い立ちから現在に至るまで、なかなかスキャンダラスであります。エキセントリックであります。でも、書簡形式という限られたスタイルの中で「妹」は書き手である双子の兄=僕が思い出し、語りかける相手であり、必ずしも「妹」自身が登場人物としてダイレクトに読み手の前に出てくるわけではありません。印象に残るのは回想され、再現される妹の、その語り口くらいのものでしょうか。どこか幼い語り口。これは『燃え上がる緑の木』で、サッチャンが嫌がっていた、この土地特有の女のしゃべり方というやつですね。

 具体的にどんな「妹」なのか。わかりやすく箇条書きにまとめてみました。

・巫女になるべく父=神主から訓練を受け、育つ
・四、五歳の頃、山でヤマイヌに性器をかまれ、むき出しの下半身を血まみれに谷間に降りて行き、土地の男たちに鋭い戦慄をあたえる
・十四、五の頃は、土地の男たちの性的中心的な存在だった
・バター色の完璧な球体の尻を持っている
・三十年くらい前は、覚せい剤を「勇ましいほどさかんに」使っていた
・地方都市のキャバレーで艶名をはせる
・父親のわからぬ子供を妊娠し、中絶手術後、帰郷
・巫女として活動をはじめる
・アメリカ大統領との会見の後、癌を発見されたと思いこみ、宇高連絡船から月明の海に投身。が、命は取りとめる
・キノコのように縮んで干からびた、土地の伝説の人「壊す人」を家に連れ帰り、「犬ほどのおおきさのもの」にまで再生させる
・兄に恥毛のカラー・スライドを送る

 どうですか。こうして箇条書きにしてみると、ちがうかちがくないかという問題以前にいろいろな論点があるような気がしてきましたが、今はちがうかちがくないかの話をしているので!うん、全然ちがいます。この女性は、大江の後期の作品に出てくる「妹」とはちがう。ちがった!私が書きたかったのは、これについてではなかった。

 しかし、どうもこの女性像には覚えがある。いつかこの連載で取り上げようと思っていた女性の類型―と少なくとも私が考えていた―のひとつにあてはまるようなのです。

 彼女は『人生の親戚』のヒロイン、「まり恵さん」。彼女は『キルプの軍団』の「百恵さん」。それから『宙返り』の「踊り子」……彼女は、小柄で敏捷。少女時代に性的なアクシデントに遭う。そして、その後性的に奔放な人生を送る。そして悲劇的な最期を遂げるもしくはそれに近い状況に追いやられるのです。

 大江作品を読む中でたびたび出てくる「小柄で敏捷、性的に奔放で悲劇的な最期を遂げる女」について、私はずっと不思議に思ってきました。このような女性像はどのようにして生まれたのだろう?と。

 『大江健三郎 作家自身を語る』において、大江健三郎は『人生の親戚』のヒロイン、まり恵さんについてこんなことを話しています。

 もともと私にはヒロイックでかつユーモアのある、しかし悲劇におちこむ女性への憧れがあった。実在するモデルはいませんが、それまでの目によるスケッチの積み重ねが細部をなしています。



 ヒロイックでかつユーモアのある、しかし悲劇に落ち込む女性。これですよ、これ。なんでしょう、意外と簡潔に説明されています。小説はあんなにまどろっこしいのに……インタビューだと簡潔……。

 となると? どうも『同時代ゲーム』に出てくる「妹」というのは、フサ叔母さんやアサ叔母さんではなく、こっちの「ヒロイックでかつユーモアのある、しかし悲劇におちこむ女性」の原型と読むほうが正しいのではないか。

 でも、じゃあ、「妹」ってなんだろう?なぜ、大江はなぜ「妹」としたのだろう?そんな疑問が浮かびます。浮かびませんか。そうですか。こんなことについて悩んでいるのは世界中で私くらいかと思いましたが、そのような考えはまったく傲慢でした。これからも何度となくこの連載のアンチョコとして登場するであろう『大江健三郎 作家自身を語る』のインタビュアー、すなわち文字通り「大江健三郎を読む女たち」のひとりである尾崎真理子さんは、『同時代ゲーム』の妹について、こんなふうに大江に質問しています。

LINK


 ―日本文学においても「妹(いも)」は古代から力を発揮してきましたが、それにしてもこの「妹」とは誰なのだろう、架空の、人類の女性全体に対する呼びかけなのだろうか、と謎でした。



 ほら!私だけじゃない!尾崎真理子さんも!「はて?」ってなってる!で、これに対して大江は次のように答えます。

 そうです。現実には私には長年の女友達というような存在はない。どのような女性へ向けて書くか、という問題が、そこでやってきた困難です。たとえば三島由紀夫はその母堂、祖母の方、また亡くなられた妹さんを女性的なものの原型にしたのらしい。恋人が原型だ、という人はさらに多い。私の場合は、高校の友人の妹という存在が、一番美しく、懐かしい女性像です。親しくなることができて、しかも一番大切な存在であり続ける原型だった。現に私はその尊敬している友達の妹と結婚した。それ以外特に親密な女性は、自分の一生になかったというべきだろうと思います。



 「現実には私には長年の女友だちというような存在はない」――言い切りました。かっこいい。ちなみに「尊敬している友達の妹」というのは、故・伊丹十三さんの「妹」のことです。

 結局、いま長い人生をかえりみて、それこそ「大江健三郎の人生」で、私にとっての女性は、対等に恋愛して相手を苦しめたり自分が苦しめられたりする、そして互いに成長するという相手ではなかったということでしょう。



 これ、なんかもうこの連載続けなくてももいいんじゃないかっていうくらい、私が書こうと思っていたテーマのアンサーがすべてここにあるような気がするのですが、

 影響を受けたのは、母親と妹、それから結婚した相手も友人の妹ですからね、いつも彼女らに庇護される、世話をしてもらう、まあ、子供みたいなものとして暮らしてきたのが私の人生でした。



 つまり、奥さんも妹だし、あとは妹と母親くらいしか女性のことはよく知らないよ〜、と大江は言っているのです。そのほかのヒロインは特定のモデルはいないけど、観察して作ったんだよ〜、と言っているのです。

 ということは、「妹的なるもの」がまずあった。それが分化していって、悲劇におちこむヒロインになったり、マーちゃんになったり、サッチャンになったり、フサ叔母さんになったりしたのではないでしょうか。原初、妹があった、ではないですが、そういう感じなのではないかと思うのです。

 大江健三郎が描く女性、ということを意識して考えるようになったとき、まず私は女性をざっくりと対照的な2つのタイプに分類しました。ひとつは、人生に積極的に出陣していき、悲劇的な最期を遂げる女。もう一方は、妹的な存在。自ら出てゆくということのない、待つ女。有能な後援支援部隊。前者は華やかな魅力がありますが、悲劇的です。下手すると死にます。後者は地味ですが長生きしそうです。

 「読み、かつ魅了された本のように生きてしまうのではないか」という強迫観念に常に脅かされている私としては、なるべく待つ女、妹的な人生をおくろう、決してヒロインになって出陣してはならぬ……と共感の重点をコントロールしながら大江の小説を読んでいるのですが、どうでしょう、『同時代ゲーム』を読んでみると、両者の出所は同じだったのではあるまいか? あの悲劇的なヒロインもまた、近しい存在である「妹」から生まれたのではないか? 私が大江の描く女性像に魅かれるのは、たとえそれが女性サイドから見て多少、奇怪なところがあったとしても、その出所が「対等に恋愛して相手を苦しめたり自分が苦しめられたりする、そして互いに成長するという相手ではなかった」ことに懐かしさを覚えるからではないか? このあたりうまく説明するのが難しいのですが、巷に氾濫する消費されるための女性性にうんざりしているところに、大江のある意味潔癖とでもいうか、一貫した女性像が妙にしっくりしてきてしまう風なのです。

 大江健三郎のグロテスクな想像力で、ずいぶん原型からかけ離れてしまったヒロインたちは、なぜか魅力的です。下手にリアリズムなのかと思わせておいて、実は男に都合のよいだけのヒロインが出てきたときの幻滅といったらないですからね。大江の描くヒロインは妖怪みたいなもので、現実に存在する女性とはまるでちがう生き物になっていて、日常のジェンダー的観点に則して腹が立つといったことがありません。そこまでかけ離れていながら、どこか現実の「懐かしい存在」である女性に根付いていることを感じさせもするわけで、つまり創作とはそういうことなのではないか、と。そうか、あの悲劇的なヒロインたちと、アサ叔母さん(もしくはフサ叔母さん)は同じところからきているのかと。そう考えてみると、アサ叔母さんだって現実にいそうだけど、あれだって創作なんだと。それが創作なんだと。

 ……そのようなことを『同時代ゲーム』を再読して発見した、と私は言いはりたいと思います。

 『同時代ゲーム』は大変な小説でした。繰り返しの多い、執拗な、ユーモアの少ない、なにかこう取りつかれたような文体から勝手に察するに、大江健三郎は精神的にかなりピンチだったのではないかと思います。これが『同時代ゲーム』以降、どんどんまろやかになっていく。同じくメキシコ滞在期のことを書いているのでも、『雨の木(レインツリー)を聴く女達』なんて、『同時代ゲーム』に比べたら、それはそれはもうまろやかで、一体この間に何が起こったのだろう、と思います。私としては、なんだかわからないけど、とにかく、ピンチを乗り切ったようでよかった、よかった!と、妹的観点に則して、ほっとしたのでした。

題字:佐藤直樹 / 文 : 小泉真由子