ポール・マッカートニーを想像してごらん(さっきょくのふしぎ編(SNF)プレスタート)

お久しぶりです、色々とありまして久しぶりになってしまいまして(大した事があったわけでもないですが、)
この間に、ポールは再来日するぞ!あれ?おなかが痛い~~!帰る~!!もうやだ~~!が、また行く~~!武道館でやる~!サザンも葡萄というアルバム出したし!オレもやる!STAP細胞はあるんです!という展開になっておりまして、これでまた「頭痛い~~!またやだ~!」とか言い出したら大麻持ってなくとも留置所に入ってもらいます、とか言いたくなる、そんなこの頃ですがみなさま、いかがお過ごしでしょうか?

さて、いきなりくだらない話題で申し訳ない、とは全く思ってなくて先に進みますが、日々ね、馬路で、と書いてマジと読むのですが、ず~~~っと考えているんですよ。
「いい曲って、知られている曲ってどういう事だろう?。作曲って何?」って。
自分でも曲を作り続けている私ですが「音楽の不思議をオレが解明してやる!金払え!」という事ではなく、なんだろう?、いい曲って、と。
これがね、音楽の不思議さでもあるんですが、つまり「優秀な構造は理解出来るがその構造を元により優秀な曲を作る事が出来ない」んですよ。
いや、出来ないというか、量産出来ないというか。
いや、出来る部分も当然あるんですよ、音楽的な良さをより発展させる方法として。 
アレンジの方法論、演奏力、歌唱力などによる楽曲の強度設定、音響的設計、などなど、それこそ延々と日々更新され引き継がれている楽典と理と鍛錬の世界。
その知恵や知識によって伝えられ共有されている音楽、はあるけれど。
  
最近ニュースなどで「人工知能A.I.がついに人間の能力を凌駕」などと報じられておりますね。
ホーキング博士曰く「人工知能の発明は人類史上最大の出来事だった。だが同時に、『最後』の出来事になってしまう可能性もある」と思わずニュースソースをコピペしたくなるほど興味がある未来がそこに来ている、というわけです。
チェス勝負も社会制度設計も戦争さえもクイズにも労働にもつまり人類の能力の大部分を人工知能が主体となって設計してしまい人間はそれに従属するしかない未来が来る!SFだ!という。
(実はこの人口~~的という思想自体が欧米思想による世界観でその世界観では自滅するがそれに対するのが世界で今吹き荒れているテロ戦争というあまりに人間的行為という見方もあると思われますが、それはやばいですね)
  
さて、、ここで一つ、思い出して頂きたいのが「SF物語内における音楽」。
人工知能が支配する未来、環境激変でそこはすでに地球ですらなく火星ですらない外宇宙、が、そこで主人公が聞いている音楽はビーチボーイズ、海ですらない荒涼とした砂景色を観ながら聞いているのがビーチボーイズ。そんな物語は容易に想像出来ると思うのです。
または、あの映画、「ブレードランナー」。
ほぼ完璧な映画内で楽譜を観ながら主人公達がピアノを弾くのはなぜ?人間ですらないのに。
ノスタルジー溢れる単音メロディに耽溺するレプリカント。
  
2001年宇宙の旅のサントラ音楽がクラシックである理由、臆病なの?とも思える判断。(別のサントラ音楽が用意されていたと聞きます。それをオミットしたキューブリックの選択)
そして、ね、つい最近作られ大ヒットしたSF映画内ではついに映画内の音楽がカセットに治まる70年代製音楽に置き換わり、主人公のトラウマと深く結びついた70年代製ポピュラー音楽は「宇宙空間」で主人公と観客と結びつけ。
   
未来の音楽を過去から想像する事も不可能なのでしょうか?
それとも人口知能的演算世界でも「音楽」だけは逸脱した存在であり続けるのでしょうか?
  
「人口知能はポール・マッカートニーの作曲能力をモーツァルトに比する能力をいずれ獲得するのか?」
アカデミックな知識の蓄積があるならば、限定されている西洋音階の組み合せ内であるならば、処理能力の向上で「いいメロディの生成」は可能であるのか?
未来の物語の中で流れるビーチボーイズの音楽が魅力的だと想像出来るのはそれが元から否定されているからか?ノスタルジーを人工知能はどう理解するのか?
 
人工知能が支配している世界でも人間によって作られる(素敵なメロディー)はA.I.では代替不可能ではないか?
感情の揺れが前提で存在する芸術や創作は代替不可能なの?
そうであるならば、もしかして、「音楽」がホーキンス博士流の未来内の救いになるのか?
「どうせ、君たちA.I.には素敵なメロディは作れまい」と思っていいのか?。
  
そんな想像が出来るからこそ、音楽の不思議さと作曲の面白さは「まだ人間の手の内にある」のでは?と。
レプリカントに「いいメロディを作る事」を命じて彼ら彼女達が床の上で暴れ廻る風景を想像してみたり。
  
そんな、仮定して、この先、話を色々と書いてみたいと思ってます。
「分からないから」。
人間の矛盾した感情に支配されている、かもしれない作曲。
鼻歌がなぜかメロディに発展してしまう不思議。
誰もが知っている曲とはどういう事なのか?
ポール・マッカートニーが楽譜も満足に書けないのはどういう事なのか?
君にも僕にも曲は作れるのか?、ではその「曲の良さ」を誰が判断するのか?出来るのか?
  
13歳の頃から曲を作り始めてすでに35年以上、色々な状況で自分も曲を作ってきました。
基本は出発点は「ポール・マッカートニーが作っているようなメロディを作りたい」という欲望のまま、それに従って、今でもです。
「ポール・マッカートニーの脳内に存在するメロディの基準」を自分にも導入したいという欲望。
ポールみたいな曲を作るのではなく、「ポールが感じている音楽の基準、メロディの基準」を理解してその基準に沿って自分も曲を作る。
それで今までなんとか音楽を作り続けております。
(それをお薦めしたいわけではありません。)
  
「60年代以降の欧米ポピュラー音楽界。ただ1人、マッカートニーの影響を一切受けていない人物」
それがポール・マッカートニーなんですね。自明な事ですが。
つまり「ポールらしさ」とはポールの外にあるという設定で、これも当然ですね。
「よし!オレに影響されてオレみたいな曲を書こう!」などあるわけ、いや、あるか?ポールなら、、。
   
とにもかくも、今後、色々な事をテキストで思いつく限り書いていこうと思っております。
「ポール・マッカートニーを想像してごらん」

題字・バナー:西島大介 / 文 : 宮崎貴士

        
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宮崎貴士
ポールと漫画が好きすぎる音楽家。 ソロ作品「少太陽」「アステア」をOut One Discよりリリース。 09年より「図書館」に参加。http://www.toshokan.net/ 10年より「グレンスミス」参加。http://glensmith.net/ 他、岸野雄一氏のバンド、ワッツタワーズに楽曲提供参加。 http://www009.upp.so-net.ne.jp/miyazaki/