大江健三郎を読む女たち 001 無敵の語り部サッチャンと、「低いレヴェル」担当

 私は肉体において女性となりながら、この土地で自分の回りを占めている、娘らしい考え方や話し方の幼さが嫌だった。そして自分がこれから望ましい女性として成熟していくことは、時どき自分が自然にそちら側に移っているのを感じる、を自己表現のにかためることではないか、と考えることがあった。

―『燃え上がる緑の木 第一部 「救い主」が殴られるまで』


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 サッチャンは両性具有の女性です。生まれてからずっと、一応・・は男性として生きてきたサッチャンですが、18歳の時に起きたある性的なアクシデントが契機となって、女性へと「転換」します。『燃え上がる緑の木』は、そのような過去を持つサッチャンの一人称によって語られる物語。

もとより物語の中心には、新しいギー兄さんの不思議な受難のその乗り越えが位置するのであって、私はいくらか奇態なところのある役柄の、一脇役にすぎないけれど。」とサッチャンが語る通り、物語の主役は「新しいギー兄さん」と呼ばれる男性。ギー兄さんは、不思議な癒しの力を持っていて、「救い主」として村の人に崇められたり糾弾されたりする。この騒動の顛末を、ギー兄さんを支えるパートナーでもあったサッチャンが書き記していく…というのがこの小説のスタイル。そして、何を隠そう、私が初めて大江健三郎に出会ったのが、この『燃え上がる緑の木』なのです!

 何を隠そう、と書いてはみたものの、実はちょっと隠したい気分ではあります。なぜって、その…、遅いと思うからです。大江を読むようになった時期が遅い、ということですね。今、奥付(新潮文庫版)を確認してみたら、平成10年とありました。ということは、1998年ですよ。遅い…遅いです。私は22歳の時に『燃え上がる緑の木』に出会って以来、大江の新作をリアルタイムで追いかけるようになりました。また、これと併行して『燃え上がる緑の木』から過去へさかのぼるように、大江作品を読んできました。そして『治療塔』に、『静かな生活』に、『キルプの軍団』に、『雨の木を聴く女たち』に出会いました。これらの作品との出会いは、女たちとの出会いでもあります。私は彼女たちに出会うたびに、「アーッ」と覚えたての大江流の感嘆の声(←使いたくてしかたがない)をあげて、おおいに悔やむことにもなりました。もっと早くに出会っていれば…もっと若いころに出会っていれば、私の娘としての暮らしは、もっとまともなものになっていたのではないか? あんな雑で投げやりなものにならなかったのではないか?

 もっとも最近では中年期の諦念に由来する開き直りとでもいうのか、「遅れてきた」読者は「新しい」読者でもあるのだ、ナニクソ、ナニクソ!とむしろ自分を鼓舞するようにこの文章を書いているわけなのですが、今でも後悔しています。おそらく一生後悔し続けると思います。とにかく、大江健三郎を読み始めてまだ16年、読者としては道なかばであると思うのです。これからも精進、というか精読を続けてまいる所存なのであります。

 さて、サッチャンに話を戻すと、サッチャンは両性具有の女性です。「十八歳の若者」だったサッチャンは、転換して男性から女性になりました。といっても、なんらかの外科的な処置を施したというのではありません。サッチャンは「転換」をきっかけに、美容院に行きます。そこで美容師に「長髪気味にしていた」頭を、「ボーイッシュな女の子という感じ」に刈り上げてもらい、化粧までしてもらいます。それはごく自然ななりゆきであったものの、はたして、同居している「お祖母ちゃん」が受け入れてくれるものか…サッチャンは不安になります。しかし、お祖母ちゃんが「―――きれいな若い衆ということを思うてきたけれども」「サッチャンは、器量の良い娘さんやったのやなあ!」と感嘆するくらい、サッチャンは美しい娘に生まれ変わるのです。
 長髪気味の女っぽい男の子から、ボーイッシュな女の子へ―このような設定にすることで、大江は、自然な形で―あまりに自然でかえって不自然なくらいに―、女性の中の男性性を描くことに成功しています。

 ところで、女性の一人称で小説を書くことについて、大江はインタビューでこんな風に語っています。

 私が女性を語り手にして小説を書いても、それはやはり私自身のナラティヴで、小説の方法的な必要によってたまたま女性の語り手が選ばれているだけです。そこに疑いようのないリアリティーの女性のナラティヴが作り出されて、その肉体と知性をそなえた女性が語っている、というのではない。これはほかの人間のナラティヴではありえない、という真の女性の声が語っている―――ヴァージニア・ウルフの、シモーヌ・ヴェイユ、佐田稲子、林京子さんという素晴らしい例を知っていますが―――、そうした真のナラティヴではありません。

―『大江健三郎 作家自身を語る』


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 ナラティヴ、というのは、「物語ること」「語り方」といった意味で使われています。つまり、女性の語り方で書いていても、本当の女性の声とは違うのだ、と。確かに、そう言われてみると、それは真の女性の声ではないのかもしれない。でも、そのおかげで、かえってこちらもセイセイした気持ちで読んでいる、ということがあるのではないか…。

 小説の方法的な必要によって生まれた、「真のナラティヴ」ではない女性の声がある。それに対して、こちらもセイセイとした気持ちで臨む。まずこの距離感があり、そうなれば「これは真の女性を描いている・いない」といった問題にこだわることなく、あとは端的に好みの問題ということになります。

 そして、大江健三郎による女性のナラティヴはどういうわけか、私を惹きつけてやまないのです。しかも、私が日ごろ愛読している、敬愛してやまぬ多くの女性たちの「真のナラティヴ」とは、また別の惹きつけられ方をしているようなのです。

 大江は、サッチャンという語り手を設定したうえで、さらに、大江健三郎自身をモデルにした「私たちがK伯父さんと呼びならわしてきた小説家の伯父」として登場します。そして、サッチャンに物語を書くように勧め、こんなアドバイスをする。

 あったことをそのまま正確に復元しようと、神経質になることはない。それよりもね、こういうことがあったと、サッチャンの言いはりたい・・・・・・ことを中心に書いてゆくのがいい。ありふれた本当らしさの物語ではないんだし、とにかくこのような物語を生きたと、きみが言いはり・・・・続けるのが書き方のコツだ。



 これはサッチャンへのアドバイスであるだけでなく、「私はサッチャンである」と言いはる・・・・大江が自分自身に言い聞かせているようでもあります。

 こうして、「ありふれた本当らしさの物語ではない」物語が、サッチャンによって言いはられる・・・・・・ことになるのです。もっとも、サッチャンが言いはった・・・・・のだと大江が言いはる・・・・この小説に本当らしさがまったくないのかといえば、決してそうでもなく…、そこでもう一度、冒頭の引用を。

 女性になったにもかかわらず、男性的に腹を立て、論理的な態度で相手に接しようとする場面でサッチャンはこんなことを考えます。

 私は肉体において女性となりながら、この土地で自分の回りを占めている、娘らしい考え方や話し方の幼さが嫌だった。そして自分がこれから望ましい女性として成熟していくことは、時どき自分が自然にそちら側に移っているのを感じる、男性の文体・・・・・を自己表現のかたち・・・にかためることではないか、と考えることがあった。



 この文章を読んだ私は、「サッチャンの考え方は、これまで私が悩んできた問題を端的に言いあらわしている!」と思いました。この考え方自体には「本当らしさ」を感じたのです。

 サッチャンは女性です。女性でいること自体は自然なことなのだけど、どうも世間的に娘がすなるとされている振る舞いには納得がいかない。ちょっと前まで男だったサッチャンは、おそらく、こんな風に考えているはずです。

 ああ、これから私は娘から女として成熟するだろうしそれを望んでいるけれども、周りにいる娘たちは幼くていやだな…。納得できない部分は、今まで男だった部分で補いつつ、大人の女になるか…

 でも、ちょっと待ってください、ここでもう一度、先ほどのサッチャンのモノローグを思い出してください。

 私は肉体において女性となりながら、この土地で自分の回りを占めている、娘らしい考え方や話し方の幼さが嫌だった。



 これって、両性具有のサッチャンに限らず、女でも、いやむしろ女こそが直面する気持ちではありませんか? 社会に要求される「女らしさ」は拒否したい。それでいて、女性として不格好でも不自然でもなく無理なく生きたい…

 ところで「この土地で自分の回りを占めている、娘らしい考え方や話し方の幼さ」ってどんなものなんでしょうね。各自、それぞれの地元のことを思い浮かべてみてください。もっとも、こういう話題は、私なんかより上手に解説している著作やブログなどが世の中にたくさんありますので、ここであらためて説明するまでもないと思うのですが…たとえば、夏祭り。娘たちは浴衣を着て、小集団を形成し、練り歩く。噂話をして、クスクス笑いながら、焼きそばを分け合う。同じ年頃の少年たちのグループ、あるいはちょっと年上の青年たちの小集団と落ちあい、それぞれの組み合わせで森の茂みに消えていく―――

 これ今、まったくの想像で書いていますが、まあ、そういう「娘らしさ」、祭りも浴衣も小集団も噂話もクスクス笑いも焼きそばも青年たちも茂みも嫌だ、と。夏祭りじゃなくても全然いいんですけど。とにかく、こういう状況になってしまった場合、娘はどうするのか。エクスキューズが必要になるんですね。私は娘だけども、性格が暗いから・変わっているから・容姿に自信がないから・頭脳に自信があるから、夏祭りには行かぬのである、いわゆる娘らしさとは一線を画すものであーる!ということを、高らかに宣言…とまではいわなくても、なんらかの態度によって表明し、周囲を納得させないといけなくなるんです。そんなたいそうなことは考えてなくて、ただ、うすぼんやりと「夏祭り、やだな~」と思っていただけだったとしても、なぜか、エクスキューズ的態度を取らざるを得なくなる。誰からも強制されてなかったとしても。なんなら自発的にでも。

 …みたいな話。みたいな話でしたか? …やはり、こういう話―夏祭りのことじゃなくて、娘らしさとかエクスキューズとか、そういう話―はもっと上手に解説されている著作やブログなどが山ほどありますので、それを参照していただくとして、ともかく、そういう面倒な話。問題を問題として認識するだけで疲れ果ててしまうような、このやっかいな問題について、サッチャンという人は、両性具有なのをいいことに、なんと理路整然と捉えていることか。サッチャン、うらやましいです。

 さらにサッチャンという女性の中の男性性は、折々の場面で無邪気に発揮されます。娘の盛りに女性が通らなければならない、そしてその影響が人生の後半の生き方を多いに左右することにもなるような、さまざまな葛藤を上手に避けて。すがすがしいほどに。たとえばこんなところ…

 あるとき、サッチャンは癒しパワーによる「治療」を終えた「ギー兄さん」が村の女に「性的ななぐさみもの」にされているらしいところを待機していた車の中から目撃してしまいます。

 子供の母親によりそわれて、それもじつに緊密なよりそわれ方で。大柄な三十女が、自分の肩にまわさせているギー兄さんの腕を介添えして、その手をディズニーのTシャツの衿もとに突っ込ませ、右腕は胸に吊られて動きがとれないのをいいことに、自分の右手でギー兄さんの股間を握っている。
――あの野郎、と私はつい「転換」前の口調に戻って慨嘆していた!



 これはいったい…いったい何が…ちょっとにわかには想像しがたいシーンですが、およそ「ありふれた本当らしさ」とはかけ離れた小説です。何度か読んでみて、このとんでもないシーンを想像してみてください。大柄な三十女で、子供の母親でもある私としてはどうもギクリとするところのある、むき出しの、目を背けたくなるような生なましいシーンが、ともすると女の欲望と嫉妬が渦巻くといったありふれたものになってしまいそうなこのシーンが、「――あの野郎、」というサッチャンのシンプルでストレートな「慨嘆」によって、総体的には小ざっぱりとした後味になるようではありませんか。

 というのも、もし実際に、このようなシーンを目撃した場合、女たちはなかなかこう、小ざっぱりとはゆかぬのではないかと思うんですね。車から猛然と降りていき修羅場を繰り広げるか、あるいはギー兄さんを置いて車をUターンさせ、家に戻り、陰湿な無言の糾弾で迎え討つか、その忌まわしい出来事自体を忘却し笑顔で迎えるという寛容さによって己の尊厳を保つか―いずれにせよ、「――あの野郎、」などと慨嘆するだけで済ませるわけにはゆかぬのではないか?

 それでも私は、サッチャンが「この土地で自分の回りを占めている、娘らしい考え方や話し方の幼さが嫌」だったり、股間を握らせるがままにしているパートナーを見て「――あの野郎、」と思うこと、それ自体については、このうえない「本当らしさ」を感じもするのです。わかる。すごくわかる。

 思わず「――あの野郎、」と慨嘆したサッチャンはしかし、車に戻ってきたギー兄さんに対して、あくまで女性の態度で迎えつつも、その言い分はやはりやけに小ざっぱりしたものです。

――母親にナメられるのはよくないよ、ギー兄さんと子供の関係が真面目なものだとしたら、なおさらに、と私は言わざるをえなかったのである。
――ナメられる? 誰が、誰に、どのようにして?
――性的ななぐさみものにされてたじゃないの。
――え?
――子供の母親があなたをグリグリと。痛かったのじゃない?
――あの人がなぐさむ、ということはないと思うよ。あれだけ絶望しているんだから、とギー兄さんは言いかえした。



 で、これっきり。驚くべきことにサッチャンは、このあと、この件について夜になって再び話し合いを求めたり、あるいは何カ月も経った後で蒸し返しあらためて憤怒する、憤懣を歌や小説といった創作物として昇華させるなどといったくどいことはしないのです。出来事そのものへの謎は残るものの、実にセイセイする一幕ではありませんか。

 両性具有じゃなくたって、このように振る舞うことくらいできる!と、それこそサッチャンの力を借りずとも慨嘆する真の女性の声、というのもあるかと思います。ただ、私としては、半分男の部分を持つサッチャンの女っぷり(男っぷり?)にため息が出るような思いだったのです。

 もっとも、サッチャンが常に都合良く男性的な態度を差し挟んでくるのかいえば、そんなことはありません。なぜならサッチャンは女性だから。大江がこの小説に「女性のナラティヴ」を採用した時点で、サッチャンは「両性具有の男性」ではなく、「両性具有の女性」なのです。

 通俗的な娘の形をなぞるのではなく、「男性の文体・・・・・を自己表現の形にかため・・・」ながら、女性として成熟していこうとしているサッチャンによって語られる物語。しかもサッチャンには、それを成し遂げそうな気配がある…半分男の女の語り手、これは無敵の語り手じゃないか!と私は感嘆したものです。うらやましい!ずるい!私だってサッチャンみたいになりたかったよ!

 しかし、そのように考えているうちに、不意に、「男性の文体・・・・・を自己表現の形にかため・・・」ながら女性として成熟していくことは女性にだってなしうるのではないか…? そして世界というのはこのように小ざっぱりしたものであったのか…?! ――そんな可能性に気づかされもするのです。

 大江健三郎の小説に出てくる女たちは、みなそれぞれに魅力的です。その魅力を解き明かしていこうというのがこの連載の目的ですが、女たちのなかでも、私がとりわけ好きなのが、このサッチャンなのです。リアリティーということは別として。むしろ、実在しない架空のヒーローにあこがれるようなものかもしれません。などと書いていると、なんとなく、サッチャン、という語呂および字面もヒーローのそれと近いような気がしてきます。ガッチャマン、バッドマン、スパイダーマン、アンパンマン、サッチャン。読者に夢と希望を与える無敵の語り手、サッチャン。――私、大きくなったらサッチャンになる!

 …しかし、高揚する気分もそこそこに、我々はふたたび先ほどの、あの尋常でないグロテスクなシーンに戻らなければなりません。なぜって私は、サッチャンの生き方にあこがれる一方で、例の「大柄な三十女」が気になって仕方がないからです。

 子供の母親によりそわれて、それもじつに緊密なよりそわれ方で。大柄な三十女が、自分の肩にまわさせているギー兄さんの腕を介添えして、その手をディズニーのTシャツの衿もとに突っ込ませ、右腕は胸に吊られて動きがとれないのをいいことに、自分の右手でギー兄さんの股間を握っている。



 子供の母親にしてギー兄さんの股間を握る、大柄な三十女――彼女の名はスエ子。名前からしてダメそうな予感がしますね。文字通り、()えた、発酵が行き過ぎた酸っぱい匂いを全身から漂わせていそうな…。しかも、スエ子、という名前が判明するのはだいぶ後になってからで、最初のほうは「登君のお母さん」としか書かれていません。
 
 登君は生まれつきの心臓病を持った男の子。ところが、ギー兄さんが手を触れるという「治療」を受けることで心臓病がみるみるよくなっていく――。先ほどのシーンは、治療を終えたギー兄さんを、「登君のお母さん」であるスエ子が車まで送る際に起きた出来事、ということになります。「性的ななぐさみものにされていたじゃないの」というサッチャンに、ギー兄さんは「あの人がなぐさむ、ということはないと思うよ。あれだけ絶望しているんだから」と答える。

病気の子供を持つ親の絶望は、私にも想像がつきます。それはわかるのですが、なぜ、その絶望したスエ子がギー兄さんの股間を握ることになるのかかがよくわからない…。読めば読むほど不可解なシーンなのですが、なぜかこちらを惹きつけるようでもあります。

 さて、ギー兄さんは、その癒しパワーから「救い主」と呼ばれることになった。しかし、いくつかの出来事が重なって、逆に村人から糾弾されることになります。こうして村人に殴られ、頭に怪我を負い、屋敷に戻ったギー兄さんのもとに、こともあろうに、スエ子がやってくるのです。しかも、眠っているところを起されて不機嫌な登君をむりやり連れて。

――明日のギー兄さんの治療の順番をな、一番に取ろうと思うて…… 今日のことで疲れておられて、早よう診療を切り上げられたら困ると思うたので…… やっぱりギー兄さんは頭に怪我をしておられるのじゃなあ、顔も二倍に腫れて……



 ああ、ああ、なんと身勝手な…!スエ子は、ギー兄さんを心配して、というのではなく、登君の明日の治療のことだけが気になるのです。スエ子のこの行動には、周囲も呆れるばかり。ギー兄さんだけが優しく、明日も治療を行う旨をスエ子に伝え、安心させます。

 しかし、そのような優しいギー兄さんに対してスエ子はどこまでも自分本位です。治療によって登君が全快すると、今度は村人たちが敬遠するようになったギー兄さんのもとへ通うことにバツが悪くなってきます。そして適当な言い訳を残し村人たちにならって、ギー兄さんを敬遠するようになるのです。ああ、ああ、なんと愚かな…!

 ところが、このスエ子に大きな事件が訪れます。糾弾によって負った傷から回復し、少しずつ信頼を取り戻していったギー兄さんは、あらためて「救い主」として教会を建立し活動をはじめます。その集会で行われたギー兄さんの説教を聞いて大感激した登君が、ギー兄さんの治療によって健康を取り戻した姿を見てもらおうと、冬の人造湖に飛び込み、泳ぎだすのです。冬の湖を泳ぐなんて、健康な子供にとっても十分危険なことと思うのですが、登君は溺れることも足をつることもなく、無事、泳ぎ切ります。スエ子は、陸へあがった登君と、そこへ居合わせたギー兄さんの脇に立ち、「背後に押し寄せる人々にも聞かせることをもくろんだ大声」で、こんなことを言います。

――登は、ギー兄さんのおかげで治ってしまいましたが! 中学校の勉強に追いつかねばならんものやから、このごろは教会にも足を向けんで、恩を忘れたと思われるや知らんと、私は気にかけて居りました。その登がな、今日はギー兄さんの説教をスピーカーから聞いて、大感激しましたが! 島の周りをグルリと泳いで廻って、心臓病がようなったばかりか、普通以上の体調やと見てもらいたいと、水に入って泳ぎましたが! 大方の人らは歌に気をとられてやったと思うが、登は一度も岸に手をつかんで、大檜の木を一周しましたよ! この陽気にな! 心臓が良うなった、これ以上の証明はありますまいが! 手術もせんで! ギー兄さんの治癒能力(ヒーリング・パワー)しるしですよ!・・・・・・・



 ……困った親子です。しかし、この事件をきっかけに、今度こそ本当にギー兄さんにどこまでもついていくのだと決めたスエ子は、後に結成される「教会の巡礼団」の一員として、日本全国を行脚するまでになるのです。本当に困った人です。

 ところで、この巡礼団は、同じくギー兄さんに目を治療してもらった住職の松男さんによって組織されています。松男さんは、視力が回復した後、あらためて仏教の修行を積み、同時にギー兄さんの教えに沿ってシモーヌ・ヴェイユを読んでみたりと、自分なりの勉強を重ねてきた人。スエ子とは大違いですね。同じく巡礼団にて記録係を務める出版社出身のインテリの若者・敏紀君とヴェイユの解釈をめぐってちょっとした口論をしたりもします。松男さんがギー兄さんに心酔した結果、にわか仕込みのヴェイユの著作から孫引き、コゴトを言うのがインテリの敏紀君には我慢ならないのです。しかし、こうした口論の末に、松男さんと敏紀君は、それぞれに、自分らはギー兄さんのヒーリング・パワーといったわかりやすい「低級な部分」で惹きつけられているだけなのではないか、と頭を悩ませます。

 教会本部へファックスで送られる敏紀君の報告には、こうした松男さんとのやりとりが愚痴まじりに記されているのですが、それを読んだ教会幹部はこんなことを話します。

……敏紀君こそ盛んにグチっているけれど、かれと松男さんの関係は、相当に高度なものじゃないの?低級どころじゃないよ。それに、意識してかどうか、低いレヴェルをがっちり押さえてくれる、登君のお母さんもついているし、これは実に強力な巡礼団だよ!



 低いレヴェルをがっちり押さえてくれる、登君のお母さん…それがスエ子なのです。

 最初こそ、ギー兄さんの股間を握る変な中年女として登場したスエ子なのですが、どういうわけか、だんだんよくなってくるんです。それは大江の優しさなのか、あるいは書いているうちにだんだん愛着が湧いてきたのかもしれない。とにかく、「スエ子のよさ」の後半の伸びはちょっとしたものです。

 「登君のお母さん」として、最初は名もなき中年女であったスエ子。後半では、その容姿について、注意ぶかい描写が行なわれることにもなります。

 スエ子さんの、鬱血したように陽灼けの下が暗い顔に近くからまじまじと見つめられると、見過ごしていた、なお生なましい女らしさが感じられたものだった。



 こうした所見が、サッチャンによって語られる。褒めているのか、そうでないのか微妙ですが、前半のスエ子に比べれば、ずいぶん複雑な印象を残していますね。褒めているのか、そうでないのか微妙ですが。

 そう、サッチャンが感じたとおり、わたしたちは(もしかしたら大江も)、スエ子の何かを「見過ごしていた」のかもしれません(できれば見過ごしたままでいたかった!)

 そんなスエ子の身に、さらにスキャンダルが浮上します。巡礼団を率いる松男さんとの関係を、村の者たちに噂されるようになるのです。

 スエ子は、みなさんもご存じの通り、あの性格ですからね、夫(つまり登君のお父さん)をひとり置いてけぼりにして、登君を連れて、松男さん率いる巡礼団とともに旅立ってしまうわけです。で、どうも、松男さんとスエ子さんはデキてるらしいと噂になる。お前は見てきたのかというくらいの、けっこうなディテールまでが噂になる。それがスエ子の夫にも伝わる。でもスエ子の夫は、わざわざギー兄さんを探してやってきて、こんなことを言うんです。

 登を心臓病から助けてもろうたことはもとよりやが、スエ子が初めは登の病気とギー兄さんの治療のことで、いまは教会と巡礼団のことで、生きておることに張りを持って励んでおるのにこそ、さらに感謝しておりますが!
―中略―
 その結果、巡礼団もなかったとするならば、あれは一生の間、本当に生きとるのかどうかもわからんふうで、ただわしの出稼ぎの留守をまもるようなことをして、暇なら沢のフキの世話もして、ただそれだけの人生でしたよ。



 夫ーーーー!!スエ子の夫ーーー!!!なんという懐の深さでしょう。スエ子のあの、滑稽なまでの熱狂について、「生きることに張りを持って励んでおる」と。それがなければ沢のフキでも世話しているだけの人生だったと。だからよかったのだと、感謝しているのだと、夫はギー兄さんに伝えたのです。

 いい旦那さんに恵まれているじゃないですか、スエ子。でも松男さんと浮気してそうですよね、スエ子は。そういう女ですよね、スエ子は。

***

 このような具合に、私は、サッチャンのきっぱりした態度、生き方にあこがれるのと同時に、共感ということでいえば、心ならずも・・・・・、スエ子のような人物におおいに共感してしまうのです。

 人間、理想だけでは疲れてしまいます。実際、前半でサッチャンを全力で称揚してしまった私は今、とても疲れています。そしてこんな風に、理想を追いかけることに疲れてしまうと、なんかもう、スエ子でいいや…とさえ思うほどなのです。うん、いいです。もう私、スエ子でいいです。

 だって、スエ子がギー兄さんについて声を張り上げて語るさまは、この連載における、私のテンションおよびその内容に重なるようじゃありませんか。それならば「低いレヴェル」担当として、大江巡礼団を支えていくのも悪くないじゃありませんか。 本当に、心ならずも・・・・・、ではありますが…。

題字:佐藤直樹 / 文 : 小泉真由子