大江健三郎を読む女たち 000 マーちゃんにみちびかれて

 大江健三郎が好きです。あんまり好きなもので、いつか大江健三郎について何かを書いてみたいとずっと思っていました。ずいぶんと長いことあたためてきた企画です。あたためてきた、といっても、特になにか行動を起こすでもなく、日々の暮らしに追われる中で、ふと思い出しては「なにか書いたら面白いだろうな…」と、ボンヤリ考えているだけで気がすんでしまうといった具合でした。

 大江健三郎の小説の好きな理由はいろいろあるのですが、ひとつあげるなら、大江が描く女たちが好きです。ならば、それについて書くのがいいのではないか、というのが、ここ10数年ほどボンヤリ考えているうちに、私の中でなんとなくまとまってきたことです。

 そうなると、まっさきに思いあたるのが、マーちゃんです。マーちゃんというのは、大江が描く女たちのひとりで、大江健三郎の娘がモデルになっています。マーちゃんの考え方や身の施し方は、これまで幾度も、私の人生において、よきお手本となってきました。そんなマーちゃんが語り手となって繰り広げられる連作短編集『静かな生活』の中に、こんなエピソードがあります。

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 上智大学に通うマーちゃんは、卒論のテーマとしてセリーヌを選びました。ところが卒論担当の先生に「現代の豊かな社会の娘さんに、セリーヌの感じ方・考え方が汲みとれるものか心もとない」と言われたり、大学院の先輩からは「なにも知らないお嬢様の可愛らしい偽悪趣味?」などと言われたりして、すっかり逃げ腰になってしまいます。その逃げ腰の態度の表現として、出てくるのがこのセリフ。

 ――セリーヌというより猫が好きなもので、この作家の猫についての表現を集めてみよう、と思っています。



 なんと絶妙な返し方でしょうか。逃げ腰の態度でありながら、決して自分を卑下することなく、人を傷つけることもなく、ほんのりとユーモアをきかせたこのセリフ。そして、こんなことを言いながらも、実はマーちゃんの心の中ではセリーヌへの近づき方は決まっています。マーちゃんは、セリーヌが描く「憐れな身の上だけれども死にものぐるいでがんばる子どもたちをつうじて」、セリーヌに近づこうと決めているのです。それは文学という、この上なく魅力的だけれどもなんだかよくわからないものに取り組むにあたって、シンプルだけれど、とても実際的な戦略ではないでしょうか。

 そこで私も、マーちゃんにならって、大江が描く女たちをつうじて、大江に近づいてみようと思うのです。

 ……と決めてから、はや数年。

 大江健三郎と女たち、大江文学の女たち、大江が描く女たち…いろいろ考えてはいたのですが、どうにも書きあぐねていました。

 はやく、はやく!私が書かなくて誰が書くのだ!という思いもあり、妙に焦ってもきました。ところが、ほかでもない大江健三郎自身が、彼の小説に出てくる女たちについて書きはじめたのです。しかも、女たちによる手記という体裁をとって。

 それが、最新作であり、また大江健三郎最新の「最後の小説」でもある、『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』です。この小説を読み「いよいよだ」と思った私は、いよいよもってこの文章を書きはじめました(あと、いよいよもって大江健三郎サイン会にまで詣でてしまったのですが、その模様については次回以降に書くつもりです)。
 

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 さて、いよいよです。いよいよもって、女たちは、どんなふうに語られることになったのでしょうか。

 『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』には、「三人の女たち」―大江の妻、妹、娘―が登場します。彼女たちは大江に対して「一面的な書き方で小説に描かれて来たことに不満を抱いて」います。そして、こんななりゆきになるんです。

 わたしたちは、「三人の女たち」というグループを結成して、それぞれあなたの小説への反論として書いたものを見せ合っている。これまではただそれを書き、確実な読み手を二人ずつ持つことで満足してきたが、あなたが「最後の小説」というようなことを(幾度も聞いた気はするけれど、七十代半ばを過ぎて、それがナントカから出たマコトになるかも知れない時に)、また言い出しているのでもあり、少なくともあなたが自分のそれを書きあげる前に、わたしたちの書いたものを読んでもらいたい。そこであなたに送ろうということになった。どうだろうか?

―『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』



 どうですか。「『三人の女たち』というグループを結成」ですよ。「それぞれあなたの小説への反論として書いたものを見せ合っている」ですよ。なんだか、ちょっと楽しそうですね。でも、私が大江だったらすごくこわいと思います。でも、これ書いているの、大江健三郎ですからね。この「三人の女たちによる別の話」という、女たちによる大江への反論をまとめた手記…という章も、大江によるフィクションですからね。

 もう一回引用しますが、「三人の女たち」は「一面的な書き方で小説に描かれて来たことに不満を抱いて」いるんです。

 わかりますか、これ。たとえばですね、恋人とか配偶者とか同居人とか兄弟姉妹とか、だれでもいいんですけど、自分にとっていちばん親しい人が書いたTwitterやFacebookの投稿などを読んで、違和感を覚えることはありませんか。自分の存在が巧みに消されていたり、逆に不自然なまでに浮き上がるようであったり。あるいは、どうやら自分のことについて書かれているのだけど、なにかが違う…といった、不満、とまではいかなくとも、違和感が、いや、やっぱり不満が、ありませんか。「私はあなたのネタに都合のいいように加工されていないか?!」みたいな不満が。

 そして、「三人の女たち」が「一面的な書き方で小説に描かれて来たことに不満を抱いて」いたというのも、このような気分なのではないかと、私は想像するのです。大江健三郎の小説とTwitterを比べるべきではないのかもしれませんが、なにがいいたいのかというと、人間がなんらかの形で表現活動をしようとすると、その表現において、いちばん身近な人間が異化されてしまったり、消化されてしまうといった現象が起こりうるのではないか、ということです。

 少なくとも大江は、このような現象が起こりうると想定して、小説を書き進めているはずです。もっとも、先ほどTwitterの例を出したくらいですから、こうした現象が起きるのは、なにも大江健三郎に限ったことではない。ですが、大江の場合は特に、この現象を利用することで小説のスタイルを作り上げてきたようなのです。

 大江は、ずっとこんな風に、現実の「女たち」からの小説に対するなんらかの反応を受け、それにこたえる形で「女たち」を描いてきた。なんらかの反応。それは、小説を読んだうえでの意見表明といったものに限りません。もしかしたら、「読まない」という反応も含めた、「女たち」のなんらかの反応。それを受けて、また書く。でも「女たち」はそれが気に入らない。気に入らないと言われたのか、気に入らないらしい気配を察したのか、とにかくまた大江が書き…というようなことが繰り返される中で、ひとつの小説のスタイルが出来上がっていく…つまり、

1.大江が書く
2.「女たち」が読む(あるいは読まない)
3.大江が「大江を読む(あるいは読まない)女たち」を描く
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 こうして、2つの「女たち」のグループが、小説の中から外から大江を取り囲み、詰め寄ると同時に支えてもいる、というわけです!

 フィクションではないほうの「女たち」は、「三人の女たちによる別の話」をどのように受け止めたのでしょうか。案外それは、こちらが想像するよりもずっと和やかかつ穏やかに、読まれたり読まれなかったり、話されたりやり過ごされていたりしているのかもしれませんね。いずれにせよ、それを知るすべはないので、ここではフィクションのほうの女たちに目を向けることにします。

 大江が自分自身の生活の一部をフィクション化して書くようになったのは、『個人的な体験』(1964年)から。1963年に、長男の光さんが「頭部に畸形をもって」生まれ、知的な障害が残ることになるだろうと予告されます。この出来事から『個人的な体験』を書くに至るまでの経緯について、大江はこんな風に話しています。

 毎日、子供の病院と家内の病院を往復する生活でしたが、いったい自分にどんなことが起こっているのか、それをしっかり理解したいと思ったんです。そこで、実際に起きていることを文章に書くことにしたのです。それも、いま振り返ってみると、日記を書くように記録するのじゃなく、小説として新しいスタイルを工夫していたように思います。それが『個人的な体験』(六四年)になりました。

―『IN★POCKET』 2004年4月号 「大江健三郎の50年」


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 ここから先、大江の小説には、彼と彼の家族をモデルとした人々が登場することになります(もちろん、女たちだけではありません!私は女たちのことばかり書いていますが…)。そしてそれは小説であり、フィクションです。

 冒頭に引用した、『静かな生活』のあとがきにおいて、大江自身が「マーちゃんがまったく架空の設定だ、ということです」と書いているように、仮にどんなに大江の実生活に近いことが描かれていようが、それは架空の設定です。ですが、大江は繰り返し、繰り返し、彼のまわりの「女たち」を登場させます。

 たとえば、大江の妻を想起させる、オユーサン(『懐かしい年への手紙』)、千樫(『取り替え子』『憂い顔の童子』『さようなら、私の本よ!』ほか多数)。大江の妹を想起させるアサ(『燃え上がる緑の木』、『水死』、『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』、ほか多数)。大江の娘を想起させるマーちゃん(『静かな生活』)、真木(『憂い顔の童子』)、あかり(『二百年の子供』)……。

 母親、妹、妻、娘、のほかにも!『治療塔』のリッチャンに、『燃え上がる緑の木』のサッチャン。『人生の親戚』のまり恵さんに『キルプの軍団』の百恵さん。『宙返り』の踊り子…。彼女たちは、「三人の女たち」が展開し、新たに大江の小説世界に生まれたような存在です。

 大江作品を何作か読んだことのある人ならわかることですが、それぞれ別の小説に、似かよった人物が繰り返し登場します。ひとつひとつの小説は独立した作品です。でも、似かよった人たちが、似かよった設定の中に出てくるので、作品の数を読めば読むほど、ひとつの「大江健三郎の小説」という変奏曲を聴いているのだという感覚になるんです。これが大江文学を続けて読むことの魅力のひとつ、と私は思います。よく大江作品は「難解だ」「読みづらい」などといわれているようですが、この、いわば変奏曲に身を任せるような読み方を身につければ、読みづらいなどとはまったく感じなくなります!(思ってるほど)難解ではありません!本当です!大江文学のスタイルを楽しめるようになったら、こちらのもの。大江健三郎を読むという行為が、人生におけるよき習慣のひとつとして定着することになるのです。

 さて、もう一度、「三人の女たち」に戻りましょう。

 わたしたちは、「三人の女たち」というグループを結成して、それぞれあなたの小説への反論として書いたものを見せ合っている。これまではただそれを書き、確実な読み手を二人ずつ持つことで満足してきたが、あなたが「最後の小説」というようなことを(幾度も聞いた気はするけれど、七十代半ばを過ぎて、それがナントカから出たマコトになるかも知れない時に)、また言い出しているのでもあり、少なくともあなたが自分のそれを書きあげる前に、わたしたちの書いたものを読んでもらいたい。そこであなたに送ろうということになった。どうだろうか?

―『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』



 「三人の女たち」はそれまでお互いに見せ合うだけで満足していた反論の文章を、大江に読んでもらいたいと言ってきた。老作家はちょうど何度目かの「最後の小説」を書こうとしているところ……

 『『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』は、いわば、ここ10年近くにわたり続いている“大江健三郎最後の小説シリーズ”の最新刊です。もっとも、どの作品をもって最初の最後の小説とするかについては、意見が分かれるところかもしれません。『燃え上がる緑の木』だという人もいれば、『宙返り』だという人もいるかもしれません。が、ともかく。

 今から10年前、『さようなら、私の本よ!』の刊行にあたって大江健三郎はこんなことを言っています。

 僕の小説のタイトルは『さようなら、私の本よ!』
また大江はこれが最後だと言って売ろうとしている、なんて言われそうですが(笑)、もうこの年になると本を売ろうとは思いません。自分の小説家としての人生の、かたちをととのえてやろうと思うだけです。

『IN★POCKET』 2004年4月号 「大江健三郎の50年」より


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 最初の、「最後の小説」が出てから10年が経ちました。この後、『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(2007年、のちに『美しいアナベル・リイ』へ改題)、『水死』(2009年)―と、大江はだいたい2年くらいごとに、コンスタントに「最後の小説」を発表してきました。『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』は、4年と、少し時間が空きましたが…そして、次は?

 ところで、「最後の作品」を延々と作り続ける姿勢は正しい、と言ったのは私の上司です。というのも、昨年、ルー・リードというミュージシャンが亡くなりました。上司いわく「メタリカとのコラボがルー・リードの遺作になった。加藤和彦も坂崎との『ひっぴいえんど』で終わった。別に悪いというわけではないけど、あれだけの作品作った人間が晩年、すべてに飽きて企画ものに走って終わるというのは、ちょっと悲しい。なのでアーチストは晩年は「最後の作品」を延々と作り続けるのが正しい。大江健三郎のように」ということなのだそうです。これはすなわち、大江のいうところの「自分の小説家としての人生の、かたちをととのえてやろうと思う」ことにほかありません。

 私としても、何度も繰り返される「最後」をクスクス笑いで迎えるような段階はすでに通り越しています。何度、「最後の小説」と言われても、常に、新作を待ちわびています。最近では、そもそもこの偉大な老作家と同じ時代同じ国に暮らしているという事実にあらためて驚き、その幸運にただただ感謝しています。新作が出れば、文字通り、ますますのご盛栄にお慶び申し上げながら、背筋をピンと伸ばし、正座(*メタファーです)して読んでいます。

 読んでいます。そう、読んでいる。実は大江健三郎は小説のほか、エッセイや講演などにおいてたびたび、「読む」という行為のさまざまな「方法」を私たちに教えてくれます。私がいま書いているこの文章は大江健三郎を「読む」ことについての文章でもあるので、ここで少し、読書体験についての大江の言葉を引用してみましょう。

 「子供の本を大人が読む、大人の本を子供と一緒に読む」と題した講演で、子供の読書体験について大江は、「言葉の迷路をさまよっているような読み方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・にも、意味はあるのです。なによりそれは面白い、ドキドキするほどのことですらありますしね」とする一方で、大人の読書体験について、こんな風に語っています。

 しかし多くの本を読みかさね、人生を生きてきもして、ある一冊の本が持ついろんな要素、多様な側面の、相互の関係、それらが互いに力をおよぼしあって造る世界の眺めがよくわかってから、あらためてもう一度その本を読む、つまりリリーディングすることは、はじめてその本を読んだ時とは別の経験なのだ、とフライは言うんです。

―『「話して考える」と「書いて考える」』


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 これは、「ノースロップ・フライというカナダ生まれの文学理論の専門家」が「バルトを引用して」語ったという、大江の小説、『憂い顔の童子』の中で描かれているエピソードから出てきた話です。ややこしいのですが、とにかく、リリーディングとは「読みなおすこと」。バルトを引用してフライが言うことには、「真面目(シリアス)な読者とは、『読みなおす(リリーディング)こと』する読者のことだ、と……

 つまり、大人になったらしみじみとこれまで読んできた本を読み返すのがいいよ、とバルトが言った、とフライが言った、と大江は言っているのです。そしてさらに大江はこんな風に続けます。

 そのような真面目な読者・・・・・・の耳には、「もう時がない……」――それは聖書の「黙示録」のなかの“time no longer”という言葉の訳ですが――という声が響いているはずです。



 なぜここに「黙示録」が出てくるのかについては、ちょっと割愛しますが、ぜひ注目していただきたいのは、この「時がない……」というフレーズ、感覚です。

 もう時がない……



 まさにいま、私がこのような文章を書き始める原動力になった気分がこれです。

 もう時がない……



 大江健三郎と「三人の女たち」、そして私たち読者がいま、間違いなく共有しているのは、この、“time no longer”な状況であり、それはもうこれ以上どうしようもないところまできているうえに、さらにヒタヒタと、2年ないしは4年ごと、それはつまり「最後の小説」がでるタームで、いよいよもって切実さを増してきているのです。

 そこで、この期に及んで、「三人の女たち」が大江への反論をまとめたように、「真面目(シリアス)な読者」であり、「もう時がない……」としみじみ感じながら大江健三郎を読んでいる私も、大江作品をいまいちどリリーディングしてみて(といっても、私のここ十数年の人生を通して常にゆるやかなペースで大江作品をリリーディングしてきたわけですが、とにかく)、なんらかの文章を書き、まとめてみたいと思っています。なぜって、もう時がない……!

~つづく

題字:佐藤直樹 / 文 : 小泉真由子