うたのしくみ Season2 第2回 にじむデュエット「銀座の恋の物語」

 細馬です。このシリーズ、Season2となっておりますが、ではSeason1はどこにあるのかというと、単行本「うたのしくみ」(ぴあ)となっております。絶賛発売中。

 わたしたちはもはや、デュエットという文化をカラオケなしに考えることはできません。いささか酒の入った時間帯に、歌っちゃいなよー、えー、やだよー、とかなんとか言いながら、結局引き受けさせられてしまうひとときの共同作業。担うべき役割は、ピンクと青で塗り分けられた歌詞となって文字列で現れ、メロディーとは裏腹の思いがけなくトリッキーな割り振りに、え、ここわたしの番なの? と驚かされつつも、歌い慣れない風情も愛敬のうち、座によっては誰も聞いちゃいなかったりしますが、それならそれでにくからず思っている相手とよろしく歌えばいいのだし、もし相手がまったくどうでもいい人間なら、義理と割り切ってさっさと片付ければよろしい。
 さて、そんな数あるカラオケ・デュエット・ソングの中でも、「銀座の恋の物語」(石原裕次郎&牧村旬子/作詞:大高ひさを、作曲:鏑木創)は、特異な位置を占めています。カラオケ経験者なら、老若男女を問わず聞き覚えがある、かかった途端に、その場にあやしいもやをかけ、いかにもスナック然とした雰囲気を醸し出す、あの独特の曲調。
 しかし、この曲をしみじみよい曲だと聞き入った経験があるかと言われると、さてどうか。むしろ、あいまいな、とらえどころのない曲という印象が強いのではないでしょうか。あ、また部長が歌うの? 誰と? もう誰とでもいいよ、間延びした歌詞にカラオケ特有のリヴァーブが存分にかかって、ほぼ何を言っているのかわからない、にもかかわらず部長はどうやら、そのもやもやと何を言っているのかわからない感じを相手と楽しんでいる…

 というわけで今回は、何度となくきいているにもかかわらず、なぜかもやもやとした印象を残すこの「銀座の恋の物語」を考えてみようと思うのです。

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 「銀座の恋の物語」のもやもや度合いを検証するために、ここでこの曲をカラオケで歌ったことがあるという山本さん(仮名)に質問してみましょう。山本さんは70年代後半生まれ。もちろんこの曲をリアルタイムできいたことはありません。石原裕次郎にもさほどの思い入れはないけれど、仕事場の上司につきあって歌わされるので、なんとなく覚えている、とのことです。じゃ、山本さん、その覚えている範囲でいいので、ちょっと最初のところを、そらで歌ってみて下さい。

「ここーろの、そこーまで、しびれるようなー」

 うーん。
 いや、歌詞はあってます。あってますが、メロディーが違いますね。出だしの二つの音は、「ここー」と同じ音で歌っちゃいけないんです。「こ↓こー」ほら、半音高いところから始めてちょっと下げる。「そこーまで」もそうです。「そこー」ほら、同じ音じゃなくて、「そ↓こー」と、半音うわずったところから下げて歌う。ファミードラ?ファミードラー。これ、すごく歌いにくいんですよね。歌の出だしから、いきなり半音上がったところから始まって、それを下げるんですから。
 なんて言うと、カラオケ教室みたいですが、実は、オリジナルを歌っている牧村旬子も、そんなにはっきりと半音上から下へと歌っているわけじゃない。彼女は、半音上がってるとも下がってるともつかない微妙なところから声を出して、それをいったんうわずらせてからもう一度下げている。「↑こ↓こーろの」と、正確な音程をあいまいに揺らせる。これにカラオケのリヴァーブをかけると、自分の直前に出した声と今の声とが重なって、音程がもやーーーっとにじんでくる。うーん、ジャジー。「銀座の恋の物語」のもやもや感は、実はこの歌い方にすでに埋め込まれているのです。
 じゃ山本さん、次は聞かせどころ「東京でひーとーつー」から歌ってみて下さい。

「とうきょーでひーとつー、ぎんざーでーひーとつー、わーかーいふたーりーが、はじめーてあーったー、銀座の恋の物語」

 カーン。
 残念。いろいろな意味で鐘一つです。ショックでしょう? だって山本さん歌うまいもん。うまいのになぜ鐘一つかと言えば、まず最後の歌詞が違ってます。「銀座の」じゃなくて「真実の(ほんとの)」が正解。でも、これはいわゆる「銀座の恋の物語」あるあるで、たいした箇所じゃない。問題はメロディです。「わーかーい」からもう一度どうぞ。

「わーかーいふたーりーが、はじめーてあーあったー」

 そうですよね。普通、そう歌いたくなる。山本さん、音程をとるのがうまいからよけいわかるのですが、ほんとのメロディはそうじゃない。まず「ふたーりーが」の「」は、そんなに下がらない。ララーソ#ラーファ、じゃなくて、ララーソ#ラーソ#。下がるのは半音だけです。なんだかおしりが宙ぶらりんでヘンですよね。でもその宙ぶらりんの方が、正解なんです。
 それから「はじめてあーあった」のところ。「あーあった」の「あーあ」も、そんなに下がらない。ミーレ#シ。ここも半音だけです。アラビア音階のような、変わった旋律ですが、こっちが正しい。
 そしてこの半音のあいまいさがもっとも際立っているのが、最初の裕次郎のパート「吐息がせつない囁きだから」の部分です。この「ささやきだから」を裕次郎は、一番ではラララソミーレ#ミーと歌っているのですが、同じメロディーを二番ではラララソ#ミーレ#ミーと歌っています。あれ?二番だけにがついている。どっちが正しいのか? たぶん、どちらも正しいのでしょう。この部分のは、ときには素直に下がり、ときには半音だけ下げてすとんと次におりるらしい。よく年配の人が「あれはけっこう難しい曲なんだ」って言ってますが、それはつまりこういうことなんだったんですね。

 このように「銀座の恋の物語」のメロディーは、冒頭のみならず、あちこちあいまいな半音進行だらけで、しかもカラオケではそこにリヴァーブがききまくるので、前の音の残響と半音下がった次の音とが重なって、曲全体に独特のにじんだ音響が生まれる。「銀座の恋の物語」という歌がまことにもやもやしてきこえるのは、もやもやした響きになるようなメロディーのしくみを持っているからなのです。

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 さて、「銀座の恋の物語」がもやもやしているのは、実はメロディーだけではありません。次は歌詞に注目してみましょう。
 通常、デュエット曲というのは、男と女が交互に各々の台詞を歌って始まるものです。たとえば、やはりカラオケで人気の高い「東京ナイトクラブ」(フランク永井&松尾和子/作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)はこうです。

(男)なぜ泣くの 睫毛がぬれてる
(女)好きになったの もっと抱いて
(男)泣かずに踊ろよ もう夜もおそい
(女)わたしが好きだと 好きだといって

 はい、男が歌って女が歌ってますね。曲によっては途中から一文を二人で歌う場合もありますが(前回の「とびらを開けて」を思い出して下さい)、最初はたいてい、おとなしくそれぞれのセリフを歌うものです。デュエットなんだからそんなの当たり前だと思われるかもしれませんが、「銀座の恋の物語」は、そうではありません。

(女)心の底まで しびれる様な
(男)吐息が切ない 囁きだから
(女)泪が思わず 湧いてきて
(男)泣きたくなるのさ この俺も

 あれ?
 これって、1行目から4行目まで一つの文のように読めるのは気のせいでしょうか。いや、気のせいではなく、実際そうだ。
 映画「銀座の恋の物語」を見ると、冒頭場面で石原裕次郎は一人で歌の一番を歌いきっています。ということはつまり、この歌詞は、男が一人で歌っても自然に聞こえるように作られている。
 本来一人の「」が発するようなことばをわざわざ男女に振り分けると、何が起こるか。心の底までしびれているのは女のように聞こえる。しかしその吐息の切なさに参っているのは男のように聞こえる。泪が湧いてくるのは女のように聞こえる。しかしその泪で泣きたくなっているのは男のように聞こえる。相手の情動と自分の情動が区別がつかなくなって、ああ泣いているのはわたしなのか俺なのか。
 つまり、「銀座の恋の物語」では、一つの文の主体を入れ替えることによって、それが誰の話なのかをにじませているのです。

 二番になると、このにじみはさらに大胆なものになります。

(女)誰にも内緒で しまっておいた
(男)大事な女の 真ごころだけど

 なんと男の側が「大事な女の真ごころ」を勝手に歌い上げている。そしてさらにトリッキーなのは次の二行です。

(女)貴男のためなら 何もかも
(男)くれると言う娘の いじらしさ

 ここ、日本語がちょっとおかしくなっています。「貴方のためなら何もかも」と言っているのは女なのですから、普通なら「何もかも『あげる』」と続くはずです。なのに、突然「何もかも『くれる』」と立場がちゃかり裏返って、いつのまにかもらう側、男の側の目線になっている。相手のことばを誠実に引用していると見せながら、実は自分の側にくるっとひっくり返している。そのことで、どこからどこまでがどの語り手なのかをあいまいにする。
 この、直接話法の中に相手の立場を混ぜて語り手をあいまいにしてしまうしくみは、日本語の歌にときどき見られるもので、たとえば大滝詠一の「1969年のドラッグレース」(詞:松本隆 曲:大滝詠一)には「意味ない事を喋ってる時の/ぼくが一番好きだわって言ったね」というフレーズがあります。この場合は、「意味ない事を喋ってる時のあなたが一番好きだわ」という台詞になるべきところを、「あなた」と「ぼく」を入れ替えることで、この台詞が女のものなのか、それとも男のものなのかが曖昧になっている。いわば、「銀座の恋メソッド」です。
 さて、話を戻してここでもう一度「銀座の恋の物語」の二番冒頭の四行を通して読むと、「誰にも内緒でしまっておいた、大事な女の真ごころだけど、貴男のためなら何もかも」まで、全部が女の台詞だということに気づきます。そこまで女に言わせておいて、「…くれると言う娘のいじらしさ」といきなり男目線に裏返される。しかも、男が台詞の一部を歌っているおかげで、前半の台詞が女のものだという事実は攪乱される。
 このような話法のにじみによって、歌の語り手の立場はさらに複雑ににじんでいきます。これは女の台詞なのか、それとも男の記憶の中にある女の台詞を男が手前勝手に再生しているのか。人目を忍んで逢うことを「忍び会い」とはよく言ったものですが、ここでは、男と女がお互いに声を交替させるというよりは、お互いの声に忍んでいくことで、きき手からみるとどちらがどちらのことを歌っているのか、その実体をもやの向こうに隠していく忍法が用いられているようです。

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 かくして、男女は東京で一つ、銀座で一つの姿となって霧隠れていくのですが、この曲のもう一つ大胆なところは、歌い手たちが自らの姿を「真実の恋」と呼びながら、一方でそれを「物語り」であると歌い上げているところでしょう。
 「真実の恋」に陥っているような人たちは、自分たちの会話に対して「物語り」なんて距離をとれるはずがない。好きだと言い放ってあとはことばもなく抱き合うことだってできるはずなのに、「銀座の恋の物語」は、まるでそれまで交わされたことばが、どこかで聞き及んだ他人の話であるかのように、「物語り」と締めくくられる。「物語り」と歌った途端に、歌い手は登場人物からナレーターへと成り代わり、物語の外へ出る。と同時に、それまでの自分たちの姿を、絵空事の絵のような、フィクションにしてしまう。

 この歌のオチは、カラオケにおいても独特の効果を与えます。「真実の」と「物語」という、相反する二つのことばが連なることによって、歌い手は真実の気分から物語の外へと抜け出します。どんなに親密な雰囲気を出して歌っても、あるいはどんなにお仕着せの関係に身もだえしながら歌っても、最後に「ものが~た~り~」と歌った瞬間、それまでの歌をかりそめにして、もやの中から逃れることができる。この点で「銀座の恋の物語」は、二人の関係にかかわらず、歌いやすい歌だと言えるでしょう。

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 1962年、この歌の発表後に制作された映画版「銀座の恋の物語」は、この曲が全編にわたってさまざまな形で用いられています。
 映画「銀座の恋の物語」は将来を夢見る「若い二人」の物語です。主人公は、石原裕次郎演じる画家志望の青年次郎と、浅丘ルリ子演じる服飾会社のお針子の久子(チャコ)。さらに、ジェリー藤尾演じるジャズ・ピアニスト宮本が友人として登場します。
 映画の中では、宮本が作曲し、それに次郎とチャコが遊び半分で歌詞をつけたという設定になっていて、この三人は劇中で何度もこの歌を演奏したり歌ったりするのですが、おもしろいことに、いくつかの場面で、冒頭のメロディの半音進行を強調する形が表れます。
 たとえば宮本が最初の部分をピアノ演奏する場面があるのですが、これは、左手も右手も冒頭の半音の上げ下げを繰り返すというアレンジで、ジャズというよりは、不安な場面につける劇伴のようです。
 もう一つ印象的な場面が、チャコが戯れにトイピアノを弾く場面です。一本指で「銀座の恋の物語」のメロディだけをを弾くその姿は、まるで観客に、曲の出だしは正しくはこうですよ、と教育するかのようです。もちろん、おもちゃのピアノには、牧村旬子の歌声のような微妙に上下するニュアンスはない。つっけんどんに、ファミドラ、ファミドラと乾いた音で鳴らされると、半音進行の奇妙さは際だって、不穏なほどです。

 さらに奇妙なのは、例の「囁きだから」の部分です。チャコは、ささやき、という音の跳躍を弾こうとして、指がもつれてしまう。次の音を探しそこねて指を彷徨わせる久子は、まるで、複雑な音程を取り損ねて迷ってしまう歌い手のようです。どうしたことか。実は、チャコのせいではなく、トイピアノの高い方の「」の音が壊れていて鳴らないせいなのです。
 この一見些細に見えるシーンは、のちの物語にとって重要な意味を持っています。

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 1962年、高度成長期の東京ではオリンピックに向けてあちこちで建設が進んでいました。映画にも、新しいビルの建設を歩道橋から見るしがない芸術家次郎の姿がうつしこまれています(ちなみに「読売アンデパンダン展」が開かれるのはこの翌年です)。しかし一方で、時代はまだ「戦後」でした。チャコは次郎が舞台美術を担当した演劇のリハーサルを見学するのですが、彼女はそこで、突如当てられた強い照明にはっとしゃがみこんでしまいます。その一瞬の閃光に、チャコはかつての空襲体験を思い出したのでした。
 それからしばらくして、次郎のプロポーズに応じたチャコは、彼の実家を訪れるべく新宿駅に急ぐ途中、近づいてきたトラックのヘッドライトの閃光にまたも驚かされます。幸い身体は無事だったものの、チャコはその後失踪し、過去の記憶を喪失した女性として次郎たちの前に姿を現します。あたかもトイピアノが「ラ」の音を失ったごとく。

 記憶を失ったチャコは、次郎が恋人であったことも思い出せぬまま、彼のアパートを訪れ、そこにあったトイピアノを戯れに弾き始めます。はたして彼女は、もやの向こうにある自身の記憶、かつて恋人と愛唱した旋律の行き先を思い出すことができるのでしょうか。その結末は、映画を観てからのお楽しみということにしておきますが、もし、あなたが「銀座の恋の物語」のメロディを幾度も彷徨ったことがあるならば、次にこの曲を歌うとき、今までよりもずっと深い奥行きを感じるであろうことを、請け合っておきましょう。

ロゴ:平松るい / 文 : 細馬宏通

        
細馬宏通
細馬宏通(ほそま・ひろみち)
1960年生まれ。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。 専門は日常会話の身体動作研究とメディア史。介護、手話会話、演劇、ゲームなどさまざまな場面で人の動作について考える一方で、明治期以降の塔や絵はがきの果たした役割について論考しています。著書に『浅草十二階』『絵はがきの時代』(青土社)。バンド「かえる目」では、ボーカルと作詞・作曲担当。 ブログ:http://12kai.com/wp/ かえる目:http://12kai.com/kaerumoku/