うたのしくみ Season2 第1回 二人でやり遂げる歌「とびら開けて」

 ディズニーのアニメーション『アナと雪の女王』は、物語や映像もさることながら、その歌の魅力によって大ヒットとなりました。最近では、ついにシング・アロング版を上映する館まで現れ、映画館内大合唱という事態まで発生しています。

 中でも興味深いナンバーが「とびら開けて Love is an open door」(作詞:クリスティン・アンダーソン=ロペス;作曲:ロバート・ロペス;歌:クリステン・ベル&サンティノ・フォンタナ/日本語版:神田沙也加, 津田英佑;訳:高橋知伽江)です。
 物語の前半に登場するこの曲は、主人公の一人である王女アナと、彼女の国のパーティーに訪れた南国の王子ハンスとが恋に落ち、プロポーズにいたる歌。ジャクソン5を思わせる軽妙な曲調のデュエットですが、その軽さとは裏腹に、なかなかの難曲です。早口で跳躍するメロディーや突き抜けるような高音を正確に歌い、しかもそれをさりげなくきかせるのは、かなり歌唱力に自信のある人でも至難の業でしょう。ましてやこれはデュエット、一人が上手いだけでは不足で、歌自慢の男女が二人揃わねばなりません。

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 ところが最近、この曲は歌うこと以外の方法によって愛好されています。その方法とは「口パク」です。
 YouTubeには、これを口パクで歌うカップルや家族の動画がいくつもアップされており、中には100万以上の再生回数を打ち出しているものまである。ただ歌に合わせて身振り手振りを交えながら口を動かしているだけといえばそうなのですが、見ているとあたかもご本人たちが歌っているかのようで、これがなかなか楽しい。「とびら開けて」「口パク」で検索するといくつも出てくるので未見の方はそちらをどうぞ。

 誰かの曲をかけながら正確にその口の動きを真似て、あたかもその人が歌っているかのように見せるパフォーマンスは、ゲイカルチャーでは「リップシンキング」と呼ばれており、ドラァグ・クイーンたちによってしばしば演じられてきました。また、アニメーションや洋画の一場面を口パクでなぞったり別の台詞をアテレコするという遊びもまた、あるにはありました。けれど、同じ曲に対して一般の人々がこれほどさまざまな口パクを試み、しかもその動画が多くの人に閲覧されるというのは、ちょっと珍しい事態ではないでしょうか。
 そんなわけで、今回はこの「とびら開けて」に、どんなしくみが埋め込まれているのか、そしてなぜこの歌と「口パク」が相性がいいのかということを考えてみたいと思います。

 さて、この曲の日本語版には、いろいろおもしろい点があるのですが、中でも不思議なのは次のやりとりです。

ハンス: 教えてよ
アナ:  え?
ハンス: 何が好きか
アナ:  サンドイッチ!
ハンス: 僕と同じじゃないか!

 たぶん、いちばんのツッコミどころは、「王子と王女の好物がサンドイッチかい!」という点でしょう。が、それよりも奇妙なのは、「何が好きか」というハンスの突然の問いに対して、アナは好きな趣味でもなく好きな場所でもなく好きな「食べ物」について答えていること、それも、サーロイン・ステーキでもなくビーフ・ストロガノフでもなくコロッケでもなく「サンドイッチ」と答えていることです。「何が好きか」という問いは、無限といっていいほどあらゆる可能性に開かれているにもかかわらず、二人は同じ意見にたどりついている。いくらなんでも偶然が過ぎやしないか。

 ここでオリジナル版を見てみると、歌詞はこうなってます。

ハンス:  I mean it’s crazy.
アナ:  What?
ハンス: We finish each other’s …
アナ:  Sandwiches!
ハンス: That’s what I was gonna say!

ハンス: どうかしてるってこと。
アナ:  なにが?
ハンス: 二人でやりとげちゃうのが…
アナ:  サンドイッチだなんて!
ハンス: ぼくもそう言おうと思ってた!

(訳:細馬)

 なんだこりゃ?
 なるほど「サンドイッチ SANDWICHES」は出てくるのですが、「お互いにやりとげる we finish each other’s」とは何のことか。ただ訳しただけではさっぱりわかりません。
 実は二人はかなり凝ったやりとりをしているのですが、ここで何が起こっているかを知るにはまずハンスの「We finish each other’s…」というフレーズについて考えなくてはなりません。

***

 よく、長く一緒に暮らしているカップルが、お互いのことばのオチを接ぎ穂しながら話していることがあります。こんな具合に。

A: それでバックしたら後ろの車のバンパーに
B: ちょっと当たって
A: それがベンツで
B: もう真っ青んなって
A: 「逃げろー」って。

 いわば二人で一つの文を語っているのですが、これは何も魔法を使ってるわけではなく、お互いが次に言うであろうことばを次々と予測しているのです。もちろんそれには、多くの体験を共有し、相手の次の行動を予測できるほどに相手のことを知っている必要がある。つまり、お互いの文のオチが言えるということは、それだけ仲むつまじい、ということになります。
 そんなわけで、お互いにオチを補いあう能力を会得したカップルは、自分たちのことを「わたしたちはお互いのセンテンスを終わらせてしまう(くらいの仲だ)。We finish each other’s sentence.」なんて言います。ちなみにこれは慣用句なので、誰かが英語で「わたしたちが二人でやり遂げるのは We finish each other’s…」と言えば、次にくる単語は「センテンス。sentence.」と予測できるわけです。

 さて、一昔前のアメリカのシチュエーション・コメディ「アレステッド・ディベロプメント」に、この慣用句をもじったやりとりがありました。

A: It’s like we finish each other’s …
B: Sandwiches?
A: Sentences. Why would I say …
B: Sandwiches?

A: なんていうか、ぼくたちが二人でやり遂げるのは…
B: サンドイッチ?
A: センテンス。なんで言うに事欠いて…
B: サンドイッチ?

sentence1sentence2

 (コメディ「アレステッド・デヴェロップメント」のひとこま)
http://www.youtube.com/watch?v=b1fLNAWlaks

 ちょっと意訳しちゃいましたが、要は「自分たちはお互いのセンテンスを終わらせるほど仲がいい」と言おうとしている男Aの台詞の途中で、女Bが「サンドイッチ」と割り込んでいるのです。つまり、「一つのセンテンスを終える」というセンテンスすら満足に終わらせることができないほど、この二人はちぐはぐな関係にある。しかも、Bはパンをパクつきながら「サンドイッチ?」と気がなさそうにもぐもぐ言うので、彼女の意識が、男の考えるロマンスとはほど遠い「パン→サンドイッチ」という即物的な「食べ物」に向いているのが、よくわかります。

 さて、ここまで予備知識をつけた上でもう一度「とびらを開けて」のやりとりを見てみましょう。

ハンス: We finish other’s –
アナ:  Sandwiches!
ハンス: That’s what I was gonna say!

 二行目までは、まさに「アレステッド・デヴェロップメント」の引用です。とはいえ、現代のシチュエーション・コメディを王女アナが知るはずもない。元ネタを知っている人はにやりとするでしょうけれども、これを登場人物がシチュエーション・コメディを気取っている場面と考えるのは無理でしょう。むしろ、「センテンス」というべきところを「サンドイッチ」ととんでもないことばに言い間違えてしまうところに、「食べ物」に関心を向けるアナの奔放な稚気を感じればいいのかもしれません。

 そして、ハンスは「センテンス!」とたしなめるかわりに「ぼくもそう言おうと思ってた!」ということで、直前のアナの台詞を、単なるとんちんかんなものとしてではなく、同じ稚気を持つ者どうしの符丁として捉え直している。彼らにとって、「We finish each other’s sandwiches」は、「センテンス」の言い間違いであるどころか、まさに二人で成し遂げられるべき「センテンス」だったというわけです。

***

 それにしても、ただ相手の言うであろう内容を予測するだけで、「お互いのセンテンスを終わらせる」ことができるものでしょうか。いや、そう簡単にはいかない。ちょっとでもずれるとこうなるのです。

A: それでバックしたら後ろの車のバンパーに当たっ…
B: 当たって、
A: ちょっと当たってそれがベン…
B: ベン、あ、ごめん、ベンツでもう真っ青んなって逃げ…
A: 逃げ、逃げろーって

 このように、相手のことばの中途からその続きをうまく引き取るには、単に内容を予測するだけでは足りない。相手がどこでことばに隙間を作り、どこで息をつぐかを体感しながら、相手と声が重なるか重ならないかのぎりぎりのところで、縄跳びの縄に飛び込むがごとく、さっと割って入るすばやさが必要となる。
 つまり、内容だけでなく、いや内容以上に、タイミングが重要なのです。

 もし相手がまとまったことばを言ったあとなら、比較的簡単です。たとえば「なにが好きか」と相手が言った直後に「サンドイッチ」と割って入るのはさほど難しくない。「なにが好きか」は、まとまった一つの質問だし、ここで発話はいったん終わっているからです。多少タイミングをはずしたからといって、相手と声が重なる恐れはない。
 それに対して「ぼくたち二人でやりとげちゃうのが… WE FINISH EACH OTHER’S-」の直後に割って入るのは難しい。相手はまだフレーズを言っている真っ最中で、ちょっとでも遅れたら相手はその続きを言ってしまうだろうし、それでは、こちらの声と相手の声とが重なってしまう。それにわたしたちはうっかり相手のことばと出だしが重なってしまったときに、よく「サンドイ…あ、お先にどうぞ」なんてぐあいに、相手にことばをゆずってしまったりする。そうなればもう一つのセンテンスを作るどころか、会話は折れ曲がってぐだぐだになってしまう。
 つまり、切りのいいところでフレーズを終えながら話者が交替していくよりも、文の中途で交替して「二人で一つのセンテンスを終わらせる」方が、より難易度が高いのです。

 アナとハンスが成し遂げているのは、まさにこのことです。そしてそれは、サンドイッチに続く次の一節にもよく表れています。

アナ: I’ve never met someone …
二人: Who thinks so much like me.
二人: Jinx.. . .jinx again.

アナ: 初めて会ったわこんなに…
二人: 自分と考えがそっくりな人。
二人: まさか、またまさか。

 アナのことばに続けて二人は偶然同じことを言うのですが、ただ同じ内容を言っているだけではなく、同じ「タイミングで」、しかも文の途中から声が「同時に」合う。しかもこの一文は複数形の「わたしたち We」ではなく「わたし I」から始まり「わたし me」で終わっているので、まるで、二人がそれぞれ独り言を言いながら偶然にも同じことばにたどりついたように聞こえます。いわば難易度Cの「センテンス」を二人で達成してしまったのですから、「まさか、またまさか! Jinx.. . .jinx again」と叫ぶのも無理はない。そしてこの「まさか!」ということば自体がまた二人同時に発せられて、ありえないことが起こった感じをいやが上にも高めています。

 ちなみにこの部分、日本語版では、アナが「わたしたちは」と言ったあと、二人で「よく似てるね」と歌うのですが、「わたしたち」と複数形で始まっている点、そして「わたしたち」に続くことばの可能性が(「なにが好きか」同様)あまりに広すぎる点で、英語の歌詞に比べると、いささかあらかじめ用意されていた台詞を歌っているような印象を与えます。

 とはいえ、意味内容、タイミング、一人称単数/複数の対比…これほど複雑な構造が埋め込まれていると、「サンドイッチ」前後を訳すのは至難の業です。たとえば「I’ve never met someone」と同じ密度で日本語の歌詞を当てはめようとするとものすごい早口で歌わなくてはならない。それに、英語は主語をいちいちはっきり明示する一方で、一人称の性別がないので、「I」と「We」と対比がはっきりしますが、かたや日本語は主語を省略しがちで、あえて使ったとしても一人称に「ぼく」「あたし」のように性別が埋め込まれていることが多いため単数/複数以外の要素がまぎれこんでしまう。いたずらに細部にこだわるよりは、思い切ってシンプルな日本語にした方が愛唱しやすい。おそらくそのような配慮が働いているのでしょう、「とびら開けて」の日本語訳は、ことば数を短くして、すっきりした歌詞になっています。

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 英語の歌を訳すには、もう一つ、クリアしなければならない重要な問題があります。それは、アニメーションの唇の動きと声とを合わせるということ、すなわちリップシンクです。

 アメリカのアニメーションでは、日本のアニメに比べてリップシンクへのこだわりが高く、録音も多くの場合、作画より先に行われ、声に合わせて作画で唇の動きを調節します(リップシンクの歴史的経緯については、拙著「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか」をお読み下さい)。そのため、日本語訳で歌う場合も、歌い手は原曲の発声とタイミングをぴったり一致させる必要がある。これは通常の洋楽を邦訳で歌う場合には要求されない、難しい問題です。
 この原稿を書くにあたって、「とびら開けて」の原曲版と日本語版の音声ファイルを同時に鳴らしてきき比べてみたのですが、(当然のこととは言え)実に細かいところまで発声のタイミングが一致していました。訳者も歌い手も、映像と歌との同期に神経を行き届かせていることがわかります。

 にもかかわらず、翻訳の宿命として、どうしても達成し難いことがある。その一つは、音韻と声をシンクロさせることです。
 アニメーションでは、単に口は単調に開閉しているのではなく、子音や母音の動きに合わせてその形を変えていきます。そしてアメリカのお金のかかったアニメーションでは、これをかなり細かくやります。たとえば、『ファンタジア』の「カバのバレリーナ」やテックス・エイヴリーの「赤ずきんちゃん」などを産み出した名アニメーター、プレストン・ブレアは、アニメーションの教科書にリップ・シンク用のチャートを掲載していますが、そこには実に細々とした指示が描きこまれています。

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Preston Blair “Advanced Animation (1947)” より。
http://animationresources.org/?p=2091

 こうした正確なリップシンクは、オリジナル版では優れた威力を発揮する一方、外国語に翻訳されると、「音韻のひとつひとつが一致しない」という問題を引き起こします。この問題を部分的に解決するためにしばしば用いられるのが、強調される母音の一部を合わせるというものです。たとえば、「とびら開けて」で、アナはBメロに入るところで「but with you –」と、この曲で初めて語尾をぐんと伸ばして歌います。ここは唇の形がかなり目立つ部分で、ブレアのチャートで言えば「U」の形が割り当てられている。そこに日本語訳では「変わる –」という訳語を当てています。意味は全く異なった語ですが、音韻は英語と同じ「U」の音で終わるので、唇がぴったり合って見える。このように日本語訳には、意味よりも音韻の一致を優先させるテクニックがところどころに埋め込まれていて、そのおかげで、わたしたちは一瞬、声と唇が合っているかのような感覚を体験することができます。

 もう一つの隠れた問題は、身体とことばとをシンクロさせることです。特に歌の場面では、キャラクターは歌詞の音や意味に合わせて細かく表情や身振りを変化させています。しかし、英語と日本語では語順も密度も違うので、吹替版ではどうしてもことばの意味と動作との間にタイミングのずれができてしまう。
 たとえば『アナと雪の女王』のテーマ曲でもある「ありのままで」を思い出してみましょう。雪の女王は「Let it go」「Let it go」と唱えるたびに手を差し出し、自ら封印してきた禍々しい氷の魔法を「解き放つ let it go」のですが、英語だと、まさに「go」ということばとともに差し出された手から氷がさあっと伸びていく。一方これが「ありの」「ままの」だと、手を差し出す必然性はどうしても薄くなる。実は「ありの」「ままの」ということばは、巧みにも、「Let it go」とほぼ同じ音節数を持ち、しかも「go」と同じ「O」の形で終わるよう「の」という語尾で訳されています。つまり、音韻レベルでは実にうまく工夫されている。にもかかわらず、身体動作までシンクロさせることはかなわない。

 実際のところ、この作品に限らず、吹替において音韻と動作の両方をあらゆる箇所にわたってぴたりと合わせるのは、ほぼ不可能に近い。この問題に対する解決策は、日本では数十年ずっと変わっていません。それは、「音声のタイミングや音韻の一部をある程度合わせて、細かい不一致はよしとする」というものです。そしてわたしたちは、こうした細かい不一致を小さいときからずっと体験し続けているので、通常の会話の場面では、ほとんどこの問題を気にしていません。
 しかし、キャラクターの口の動きや動作が強調される歌の場面では、どうしてもそのずれが意識される。完璧にリップシンクが達成され、歌詞の音や意味と見事にシンクロして体がいきいきと動いているオリジナル版を見ると、もはや声をあてている歌手の存在は忘れられ、絵に描かれたキャラクターこそが歌っているのだという体感が立ち上がってくるのですが、この体感の生々しさにおいて、吹替版は残念ながら一歩譲るというところでしょう。

***

 ところが、この問題をひっくり返してしまったのが、他ならぬ「口パク」の流行です。
 生身の人間が「とびら開けて」の日本語詞に合わせて口パクをすることによって、なんと吹替版にはなかった、日本語によるリップシンクと身体動作が実現してしまった
 そして、「教えてよ」「え?」「なにが好きか」「サンドイッチ」「ぼくと同じじゃないか!」という、いっけん唐突に過ぎるやりとりは、見事にシンクロした身体を伴われることによって、かえって、唐突な会話にもかかわらずこの人たちは確かにその会話を交わしている、という奇妙な実在感を呼び覚まします。その結果、笑っちゃうようなリアリティが生じる。これは、オリジナル版では起こりえない、吹替版なればこそ生まれた、大逆転の現象と言えるでしょう。

 わたしたちは、口パクを見ながら、ただ歌に合わせてパクパク口を動かしている人々を楽しんでいるだけではない。アニメーションよりも完璧なリップシンクと身体動作が達成されたときに、歌がいかに生々しく響くかを目撃しているのです。

ロゴ:平松るい / 文 : 細馬宏通

        
細馬宏通
細馬宏通(ほそま・ひろみち)
1960年生まれ。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。 専門は日常会話の身体動作研究とメディア史。介護、手話会話、演劇、ゲームなどさまざまな場面で人の動作について考える一方で、明治期以降の塔や絵はがきの果たした役割について論考しています。著書に『浅草十二階』『絵はがきの時代』(青土社)。バンド「かえる目」では、ボーカルと作詞・作曲担当。 ブログ:http://12kai.com/wp/ かえる目:http://12kai.com/kaerumoku/