ある時は大学で身体動作の研究者。ある時はバンド「かえる目」のボーカリスト。 またある時はえーとパノラマや立体視や絵はがきについてめちゃくちゃ詳しいおっさん! かえるさん=細馬宏通さんの待望の連載です!   ( 第1回から読む )

歌のしくみ 第15回 深く深く

 「手をたたきましょう」の作詞家である小林純一さんは、こどものための曲を多く作詞していますが、その特徴は、とても身体的な歌を作ったことです。彼の代表作の一つに「大きなたいこ」があります。この歌では、大きなたいこを叩くさまと小さなたいこを叩くさまを対比させます。

大きなたいこ
どーんどーん
小さなたいこ
とん とん とん

 「大きなたいこ」のことを歌うときは大きな声でその音を、「小さなたいこ」のことを歌うときは小さな声でその音を歌う。小さい頃はそんなことを考えもしませんでした。歌の内容がどんなものであろうと、声を張り上げてわあわあぎゃあぎゃあ歌うものだと決まっていました。そんな子供に、この歌は、「歌の中で示されたことばと歌い方とは関係しうる」ということを教えてくれたのでした。
 しかし、その一方で、「笑う」と言ったとたんに笑ったり、「悲しい」と言ったとたんに泣き声になったのでは、忙しくてしょうがない。だから、人は、基本的には歌の内容と歌い方との間に、少しよそよそしい不干渉な関係を築きます。あたかもなんでもないように歌う。たとえば、上を向いて歩こう、を歌うときにも、いちいち涙をこらえたり、泣いたりはしない。
 かといって、まったく無関係というわけでもない。歌のことばに伏流している情動は、ときに表に現れて、メロディや歌声を揺らせることがある。人は歌をききながら、ことばと歌とのあいだを振れる情動の振れ幅を聞いているのかもしれません。

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 さて今回取り上げるのは、二階堂和美の「いのちの記憶」です。『かぐや姫の物語』の主題歌として有名になりましたが、今回考えてみたいのは、歌そのもののことです。
 「いのちの記憶」には、一番、二番で繰り返されることばがあります。それは「深く深く」ということばです。この歌詞を歌う声は、先に書いた通り、歌詞に合わせて「深く」なることもできるかもしれないし、「深く」ということばが指し示す内容とは不干渉で居続けることもできるでしょう。
 では、ニカさんはどう歌ってるでしょうか。彼女はここを、「ふかあく」と、「か」をずうっと伸ばして歌っています。と、こう書くと、さぞかし声が、表層から深層へと潜っていくように深みを帯びるのだろうなと思われるかもしれません。しかし、実際はそうではない。
 ニカさんの声は、逆にこの長音の部分で、声をのばしながらその声がはかなくなっていくかのように、少しく軽くなるのです。そしてメロディも、沈降するどころか、むしろ長音とともに上昇していきます。「ふかあく」と歌われながら、声は表層から深層に潜るどころか、むしろ深層から表層へと運ばれていくかのように、微かな浮力を帯びています。
 「深く」ということばが、潜る力ではなく、浮力を伴っている。これはどういうことか。単に、歌い手は歌のことばと声とを、できるだけ無関係におこうとしているのか。
 ここで歌をはじめから聞いてみましょう。「いのちの記憶」は、こんな風に始まります。

あなたに触れたよろこびが
深く深く
このからだの端々に
しみこんでゆく

 不思議な歌詞です。「あなたに触れる」というできごとは、普通、からだの表面で起こります。だからもしその触れた場所からよろこびが発するならば、それはからだの表面から奥へと向かうはずです。ところが、それは「ふかあく」と浮力を伴って歌われたあと、「からだの端々に/しみこんでゆく」通常、深く深く進んでいくときは、海面から海中へ潜るように、地表から地中へ掘り進むように、周縁から核へと進んでいくのではないか。それがここでは、むしろ周縁である「端々」に行くのです。「はしばし」ということばもまた、深みのたどりつく先としては意外なほど、高く、そして淡く歌われています。
 深く進むほどに端々に行く。そのような移動をする主体はどこからきたのか。それはきっと端とは逆の場所、核から来たのでしょう。「このからだの端々」に移動する主体は、このからだの核から来た。だから、「触れる」というできごとの起こったからだの表面からではなく、からだの核からすうっと立ち上がるのです。
 単に方向が逆になっているだけではありません。核から表面に向かうことと、表面から核に向かうこととでは、広がりの感覚も全く逆になります。通常、表面から核に向かうとき、世界は広い場所から次第に狭い場所へと狭まっていきます。これに対して、核から表面に向かうとき、世界は狭い場所からより広い場所へと拡がっていきます。
 拡がるだけではない。それは端々へと「しみこんでゆく」。人やもののような塊として移動するのではなく、水のように「しみこむ」。核からただ一つの「端」に向かうのではなく、いくつもの「端々」に拡がる。「ふかあく」と歌う声の速度と浮力に従って、体液のごとく、毛細血管のひとつひとつを探り当てて、その細い管の先を充実させていく。

 歌は、このようにして、深さというできごとに、新しい時間、新しいからだを与えます。触れる、というできごとを合図に、からだの核で生まれ、長音のようにゆっくりと拡がり、からだの端々へと探り当てていくような深さ。
 思わず「新しい」と書きましたが、この深さ、この時間、このからだのあり方は、本当に「新しい」のでしょうか。「必ずまた会える/懐かしい場所で」と歌は続きます。どうやらこれは、前にもあったことらしい。いや、あったというより、前にもこんな風に思い出したような気がする。この歌は、ものというよりは変化、深みというよりは深まっていくことそのもの、何か特定のものを思い出す歌というよりは、思い出すことそのもののような気がします。かつて、この歌のように、なにごとかが深まっていくように、思い出したのではなかったか。

 なんだかいつもの文章よりも、くらがりを手探りするようなぐあいになってきたのですが、実を言うと、さっきから使いたくてあえて使っていないことばがあります。それは「わたし」です。不思議なことに、「いのちの記憶」では「あなた」ということばが使われていながら「わたし」ということばが一度も表れません。そのことで、この歌はとても触覚的で体感的に響きます。あなたが触れたこと、あなたがくれたことははっきりしているけれど、「わたし」と呼ばれるもの、「わたし」という特定の視点はない。歌は、何かの光景をありありと映し出すかわりに、からだに感じさせます。「深く深く」というのが、はたしてわたしの中で深まっているのか、それともわたしが深みを目指しているのか、わからない。わたしの中で端々にしみこんでいくのか、それともわたしがたくさんのわたしになって端々の深さへと拡がっていくのか、わからない。そもそも、このからだは、「わたし」と指し示すことができるような目に見えるからだのことではない。あなたによって、深く深く拡がっていく時間、その時間とともに明らかになっていくからだです。
 このからだには、まだ名前がない。
 どんな名前をつけましょうか。
 歌声はそれを「よろこび」そして「ぬくもり」という名で呼んでいます。

ロゴ:平松るい / 文 : 細馬宏通

        
細馬宏通
細馬宏通(ほそま・ひろみち)
1960年生まれ。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。 専門は日常会話の身体動作研究とメディア史。介護、手話会話、演劇、ゲームなどさまざまな場面で人の動作について考える一方で、明治期以降の塔や絵はがきの果たした役割について論考しています。著書に『浅草十二階』『絵はがきの時代』(青土社)。バンド「かえる目」では、ボーカルと作詞・作曲担当。 ブログ:http://12kai.com/wp/ かえる目:http://12kai.com/kaerumoku/

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