第22回 他と私を識別するもの

【A】

umbrella

 「もうウンザリだ」とついついコンビニの前で独り言を言ってしまった。もう何度、雨の日の度にコンビニで傘を盗まれてきただろうか。

 店内に持ち込まず傘立てに傘を入れているのだが、その律儀な行動のせいで盗まれ続けている。盗まれるのは高い傘だけでは無く、数百円のビニール傘でもそれは変わらない。むしろ、ビニール傘の方が盗まれる機会が多いくらいだ。

 それなら店内に持ち込めばいいじゃないかとよく言われるのだが、濡れた傘を店内に持ち込むのも抵抗感がある。コンビニの床は、おそらく掃除のし易さを優先したためだと思うのだが、ツルツルしているため、濡れると非常に滑りやすくなる。濡れたコンビニの床で転んでひどい目に遭ったことがある身としては、濡れた傘をそのまま店内に持ち込むという決断はし難い。

 しかし、このままではまた次の雨の日には盗まれてしまうかもしれない。コンビニで盗まれたのであれば、そのコンビニでまた傘を買えばいいだけの話(それも相当に腹立たしい出来事にはかわり無い)なのだが、コンビニではないところで盗まれた場合、大変なことになる。

 往々にして傘を盗まれるという時は、雨がそれなりに降っていて、傘立てを見た傘泥棒が「あ、こんなところに傘があるじゃん!」と発見し、そのまま何の罪悪感も無く持っていっているのだろうと容易に想像がつく。

 では、どうすれば盗まれないようになるのか。私は、この闘いに終止符を打つため一計を案じることにした。

 と言ってもたいしたことでは無い。ただ自分の傘の柄に、自分のシールを貼っておくというだけだ。しかしこれをすることで、どこにでも売っているようなビニール傘が、ここにしか無い特殊な傘になる。

 盗む側からしてみると、どこにでも売っているような傘なら気兼ね無く盗めるのだろうが、このシールを貼ってある傘だったら、少しは抵抗感が生まれるのでは無いかと考えた。

 つまり、この傘はそこらへんに放置してあるただの物体なのではなく、誰かがお金を出して雨をしのぐために買った所有物なのだという物語を、「わざわざシールが貼ってある」ということで際立たせようとしたのだ。しかも、シールを貼って他と区別できるようにしておけば、同じビニール傘同士で間違えて持っていくという事故も防げる。

 というわけで、次の雨の日に早速シールを貼っておいた傘を持っていったのだが無事盗まれなかった。きっとこれで大丈夫だろう。

 ただ1つこの方法に問題があるとすれば、会社で同僚にこの傘を見られた時に「そのシールなんですか?」と聞かれて、面倒くさい説明をしなければならなくなったことくらいだ。


【A’】

 週末に風邪を引いて体調を崩してしまったので、近所の大きめな病院に行った。週末でも開いているということもあってか、かなり早めに行ったのにも関わらず受付には行列が出来ていた。しばらく待った後ようやく受付を済ませ、そこで「327番」と書かれた小さな紙を受け取った。

 この段階で今日の、病院内での私の名前は、診察室に行くまで管俊一ではなく327番となる。

 確かにプライバシーの保護や、これだけの人数の外来患者をミス無く捌くための効率性から考えても、このように番号を振る方が遥かに都合がいい。

 この病院は、数カ所ある待合室に液晶ディスプレイが掲げられており、そちらに今診察中の人の番号から、次の次の人までの番号が表示されている。ここまで表示されていれば、「じゃあちょっとトイレに行って来よう」と席を立つこともできるし、表示されていない=もうしばらく待つという目安にもなる。

 さて、私がこのシステムを見ながら興味深いと思ったのは、当たり前の事だが、今の私=327番というのは、今日この場所だけでしか有効では無いというところだ。もし明日、また同じ病院に行って受付をすれば、今日とは違う新しい番号が割り振られる。「327番の方〜」と呼ばれる人は今日と明日で違う。

 この327番は、「管俊一」のようにずっと変わらない名前ではなく、便宜上定められた一時的な名前だ。ずっと変わらなくても一時的でも、名前というものは「他の人と識別する」というために機能する。

 この「管俊一」は私の名前なので、私が社会生活を送る必要がなくなる時、つまり死ぬまでは基本的には変化しないし無くなることもない。一方「327番」という名前は、今日の、この病院の中のみという限定的な世界だけで機能すればいいものだ。

 名前にも有効期間と範囲があり、この社会では必要な状況に合わせてそれが使い分けられている。

 ちなみに、私の本名は「『菅』俊一」なのだが、今回のA’の中だけは「『管』俊一」と表記させて頂いたことを最後に付け加えておく。


【B】

 いつも使っているストップウォッチの電池が切れたので、交換しようと思い、取扱説明書を読みながら交換方法や電池について調べていた。

 よく見ると、取扱説明書の最後に小さく、対応している電池として「SB-T11」という名前が上げられていたため、インターネットで調べてみたところ、「ボタン電池(CR2016 / ECR2016 / DL2016 / SB-T11)」という商品が出てきた。

 商品名の中に「SB-T11」以外の名前もズラズラ加わっていたことから、果たして本当にこれが自分の求めている電池なのか全く分からず、不安になってきたのでもう少し調べてみたところ、どうやらボタン電池は同じ規格のものでも、乾電池の「単3」のように種別を共通で指し示す名前が無いため、各メーカーが個別に付けている品番がそのまま名前として表記されているようだ。

 1つの会社の中で管理するという目的には、品番は体系的で扱いやすい名前なのだと思うが、今回はそのローカルな環境でのみ機能している名前がそのまま集合してしまったため、先ほど挙げた商品名のように同じ物を複数の名前で指し示すという事態が起こり、分かりにくさを増長してしまっている。

 普段私たちは、名前とそれが指し示す物は一対一対応の関係を持っていると思っている。ところが、今回のようにそのような関係が崩れてしまうようなことが起きると、分からないだけでなく、本当にこれで正しいのかという根底が揺らぎ、「不安」な感情がわき起こる。

 どうやら私たちは、「名前」というものとその機能を無条件に信じている。


【B’】

 同僚の誕生日祝いということで、プロジェクトチームで会食をした。誕生日祝いにかこつけて、毎回、いつか行ってみたいなと思っている店にチャレンジするきっかけになっている。

 今回は、前から気になっていたとあるカフェレストランを予約して行ってみることにした。渡された食事のメニューを見ると、とにかくどれも1つ1つの名前が長い。個別によく見ていくとその長さの理由は、料理自体の名前がそこで使われている食材を列挙した後に、「〜を炒めた物」というように調理方法で終わる、名付けのルールがはたらいているらしい。

 もちろん、個別の食材の名前や「包む」「焼く」といった調理方法についての知識は私も持っている。料理の名前の中にもそれぞれかなり具体的に書いてあるのだが、それらが組み合わさると、一体どんな食べ物なのか全くイメージできない。

 メニューの種類が多かったこともあり、店員を読んでおすすめを聞いたりしながら何を食べようか選ぶことにしたのだが、とある料理について「これは何ですか?」と聞いてみると、料理名に登場した食材についての説明をひと通りした後で、「まあ餃子みたいなやつです」と答えが帰ってきた。

 「えっ?餃子??」

 もちろん「餃子」という料理がこの世にあることは知っているし、この極めて具体的な説明によって、私たちが気になっている料理がどういう食べ物かもなんとなくイメージすることができたのではあるが、「みたいなやつ」という言葉が私の頭の中に引っかかっていた。

 さて、注文後しばらくしてから私たちの目の前に現れたのは、見た目(と構造)がかなり餃子に近いが、味は私たちが普段食べている餃子とは異なる、「餃子に似ているけどちょっと違う」料理であった。

 確かにこれは、「餃子みたいなやつ」と形容されても嘘では無い。しかし、ここまで見た目やつくりが似ている場合、この料理は餃子の一種として捉えるべきなのか、それとも全く新しい(餃子に似ている)料理と捉えるべきなのか。

 おそらく料理を提供する店としては、中華料理店では無い&ある一環したコンセプトのカフェレストランであるということから、「餃子」という単語をメニューには入れたくなかったのだろう。メニューは単なる情報ではなく、店のイメージを作るための重要な要素だから、料理の名前1つで、その店のイメージがガラリと変わってしまう。

 そんなようなことを考えながら、最後に1つ皿に残っていたその料理をもう一度食べてみたのだが、やはりコレは誰が何と言おうと餃子にしか思えない。しかもとびきりおいしいやつだ。


【AA’=BB’】

 今回は「他と私を識別するもの」というテーマで、AA’では「明確に自分と他を識別する」という事について、BB’では「識別しようという意志はあるが、結果として他と識別するのが困難な状況」について書いた。

 取り上げた物の中でも、特に「名前」は自分と他を識別するために有効なものの1つだ。「名前」があるからこそ、顔の知らない相手でも、他人と識別することが可能になる。

 そして名前というものには様々な形態がある。私たちは普段から、ただの番号やメールアドレス、webサービスのユーザ名等、様々な名前を付けられ、持ち歩き、使い分けて生きている。言ってみれば自分の関わる社会、コミュニティの数だけ、私たちは名前を持っている。私たちの人生は、たった1つの名前、1つの社会だけで成立しているというわけでは無いのだ。

 複数の名前を持ち、多くの社会と関わることは、一見大変で面倒くさいものに思えるかもしれない。しかし見方を変えれば、あなたにはたくさんの、待っていてくれる居場所(とそこでの名前)があるということでもある。

 それはきっと、将来あなたがどこかで生き辛くなってしまった時に、救ってくれるものになるはずだ。そう考えると、私たちが多くの名前を使い分ける社会を作ったのも、そんなに悪いことでは無いように思える。

画・文 : 菅俊一

        
菅俊一
菅俊一(すげ・しゅんいち)
会社員/研究者/映像作家
1980年東京都生まれ。慶應義塾大学政策・メディア研究科修了。在学中より人間の知覚能力に基づいた新しい表現の在り方を研究し、映像やグラフィックをはじめとした様々な分野に定着させる活動を行なっている。主な仕事に、NHK Eテレ「2355/0655」ID映像の企画制作、著書に「差分」(共著・美術出版社)など。2012年、D&AD Yellow Pencil受賞。http://syunichisuge.com/